二宮尊親 明治29年(1896)、二宮尊徳(金次郎)の孫である尊親が牛首別(現豊頃町)を訪れ依田勉三と交友が始まります。明治16年以来孤立していた勉三にとっては、ようやく気持ちが通じる人との出会いで・・・ (続きを読む)
十勝の旅 28 (十勝分監創立 )
十勝分監創立 1895年(明治28)4月1日、北海道集治監としては最後になる五番目の十勝分監が開庁しました。 刑期12年以上の重罪犯の収容のため、入所者は多いのですが出所する者は少ない刑務所でした。・・・ (続きを読む)
十勝の旅 27 (開拓の始めは豚とひとつ鍋)
開拓の始めは豚とひとつ鍋 晩成社が最初に鍬を入れた場所に「帯広発祥の地」の碑があり、「開拓の始めは豚とひとつ鍋」が刻まれています。 この句は明治17年、幹部の渡辺勝が「落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋」・・・ (続きを読む)
十勝の旅 26 (三県一局時代)
三県一局時代 晩成社の不運はバッタの大群だけではありませんでした。 明治15年に開拓使が廃止となり、札幌県・函館県・根室県の三県一局と重なったこともあったのです。十勝国が札幌県の行政区画となり、札幌・・・ (続きを読む)
十勝の旅 25 (渡辺カネ)
’96年『凍える牙』で第115回直木賞を受賞した乃南アサの単行本「チーム・オベリベリ」が今発売になっています。 これは渡辺カネを通して晩成社を書いた小説です。開拓で入植してから5年間くらい・・・ (続きを読む)
十勝の旅 24 (バッタの大群 )
バッタの大群 明治16年、晩成社は現在の国道38号と南6丁目線が交差するあたりに最初の鍬を入れて開拓は始まりました。(依田勉三の銅像が建てられています) しかし、早くも開拓の現状に驚き3戸4人が逃亡・・・ (続きを読む)
十勝の旅 23 (幌泉)
幌泉(襟裳岬) 襟裳岬という名前は、アイヌ語の「エンルム」(突き出た頭)または「エリモン」(うずくまったネズミ)からという説があります。 しかし、この地区は幌泉(ほろいずみ)と言われていた時代・・・ (続きを読む)
十勝の旅 22 (海路を選んだ人たち )
海路を選んだ人たち 海路で大津港に向かった一行も容易な船旅ではありませんでした。 函館から船に乗った11名は、日光丸が風帆船で出帆して6日目、海がナイで進まず、幌泉(襟裳)の入江に寄ります。 ・・・ (続きを読む)
十勝の旅 21 (陸路からの幌泉)
陸路からの幌泉(襟裳岬) 襟裳から十勝国の入口である広尾に至るには、幌泉(現えりも町)から庶野に抜けて、目黒(猿留)を経由してビタタヌンケに達し、近藤重蔵が開削したというルベシベツ山道を経由して音・・・ (続きを読む)
十勝の旅 20 (陸路を選んだ人たち)
陸路を選んだ人たち 陸路を選んで函館を出発したメンバーは依田勉三夫婦を含めて16名でした。 ・依田勉三(30) 晩成社専務 妻リク ・藤江助蔵(34・・・ (続きを読む)