「ここから十勝」 日高山脈は、北海道中央高地の狩勝峠(かりかちとうげ)から太平洋に突出する襟裳岬(えりもみさき)まで総延長約200キロ。 北海道南北につらぬく背梁の南半分をつくっており、この山脈は標・・・ (続きを読む)
十勝の旅 8 (松浦武四郎の十勝紀行文)
「十勝日誌 」 探検家松浦武四郎の十勝紀行文は「十勝日誌」として1860年(万延元年)に書き上げました。 現代文の訳で出版されているのもあるので読みやすくなっています。 一日の日記として寒地と越冬を克・・・ (続きを読む)
十勝の旅 7 (探検家松浦武四郎)
十勝国の内陸地に和人(日本人)で最初に踏み込んだのは探検家松浦武四郎でした。 この大平原を肥沃の大地であることを宣言した人物は二人いました。 一人が松浦武四郎、もう一人は明治維新後日本に来た開拓使最高・・・ (続きを読む)
十勝の旅 6 (和人地とアイヌ蝦夷地の崩壊)
ラクスマンが根室港にきたのは1792年10月20日でした。 通商を求めるのが目的でしたが、大黒屋光太夫も同船していました。 江戸幕府が蝦夷地に本腰をいれたのは領土問題があったからです。 本来、蝦夷地は・・・ (続きを読む)
十勝の旅 5 (十勝名称の由来)
この十勝の旅は、現在1800年代前半のころを想定して書いています。 十勝の内陸に和人が入っていくには、まだ半世紀あまり後になります。明治まであと68年。 「トカチ」の名称の元は「トカプ」です。「ト・・・ (続きを読む)
十勝の旅 4 (高田屋嘉兵衛)
海路で根室に行くこともできました。 箱館の北洋漁業の基を築いた「高田屋嘉兵衛」が活躍したのはこの時代です。 『寛政12年(1800年)3月、手船辰悦丸(1500石積)に乗った高田屋嘉兵衛は、図会船およ・・・ (続きを読む)
十勝の旅 3 (道づくり第一号)
寛政11年(1799)、東蝦夷地が幕府直轄となり、近藤重蔵は、その前年に下見巡察として国後・択捉島を見分し択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てました。 ロシアの南下政策を防ぐには、ネモロ(根室)・ク・・・ (続きを読む)
十勝の旅2 クナシリ場所
国後目梨のアイヌ蜂起 十勝の沿岸を和人が頻繁に通るようになったのは1785年(天明5)からです。 1773年(安永2年)に松前藩より、商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、労働力とし・・・ (続きを読む)
十勝の旅1 陸の孤島
十勝の旅を、北海道市町村の紹介で「道東地区」に入れました。 十勝開拓の祖と言われる「依田勉三」を通して連載でつづっていきます。 陸の孤島 1803年、十勝国にはアイヌ民族が1044人住んでいたという記・・・ (続きを読む)