ラクスマンが根室港にきたのは1792年10月20日でした。
通商を求めるのが目的でしたが、大黒屋光太夫も同船していました。

江戸幕府が蝦夷地に本腰をいれたのは領土問題があったからです。
本来、蝦夷地は松前藩の支配地で、アイヌ民族との交易を通して収益を上げていた藩でした。
当時、蝦夷地を4つに分割し、渡島半島の半分を松前藩領とし東蝦夷地(太平洋側根室・千島まで)、西蝦夷地(熊石から石狩・宗谷、知床まで)、北蝦夷地(樺太)としていました。
松前藩領が和人地で日本海の熊石に関所を設け、その他の地域に住むアイヌとの交易を独占していたのです。

アイヌ民族とは、住み分けられており十勝の国も例外ではありませんでした。
しかし、天保の飢饉(1832-36)のころには、蝦夷地に出稼ぎにくる和人漁民が増加し、和人の蝦夷地永住を黙認せざるをえなくなりました。
そうして、文久元年(1861)にとうとう蝦夷地旅人改めを廃止するにいたります。
和人地とアイヌ蝦夷地の分離支配体制は崩壊していったのです。