三県一局時代 

晩成社の不運はバッタの大群だけではありませんでした。
明治15年に開拓使が廃止となり、札幌県・函館県・根室県の三県一局と重なったこともあったのです。十勝国が札幌県の行政区画となり、札幌は山脈を挟んで遥かかなたの存在となりました。
更に、この三県時代も明治19年には廃止され道庁制度が設立されます。
依田勉三が何度も繰り返し書く嘆願書は、紙くずでしかありませんでした。
 
晩成社は政府が進める移民制度と異なるのは、全て自費であったことです。
これは、明治3年に北海道に渡った仙台藩(後の伊達市・当別町など)と同じです。

屯田兵は建物・生活の道具・食料は入地時に支給されます。
(兵舎一棟200円で現在の伊藤組が請け負って建てていました)
更に戸数は100~200単位で多数の仲間がおります。
道路はすでに囚人によって開削されており、晩成社とは雲泥の差がありました。

依田勉三は、大津港までの道開削を政府に何度も嘆願書を送ります。
しかし、ナシのつぶてでした。
入植した帯広と下界の連絡は、太平洋岸の大津まで出ていかなければ繋がりません。手紙も米・味噌・塩などの食料を伊豆から送ってもらいますが、引き取りに行くには2~3ヶ月に一回のありさまです。 
十勝モンロー主義といわれる所以はここにあります。

輸送が絶たれ、蚊・ブヨ・アブに悩み、そうしてバッタの大群、衛生環境の悪い中でマラリヤ病となりました。