陸路からの幌泉(襟裳岬)  

襟裳から十勝国の入口である広尾に至るには、幌泉(現えりも町)から庶野に抜けて、目黒(猿留)を経由してビタタヌンケに達し、近藤重蔵が開削したというルベシベツ山道を経由して音調津・美幌・広尾というコースとなります。

1790年以降、蝦夷地随一の難所とされたこの区間は旅人を悩ませました。
この道なき道を最上徳内、近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四郎たちも通行していったところです。
しかし、晩成社は一般人ですし、ましてや女性と高齢者もいました。
 
一行は、この区間の猿留(さるとめ)峠が聞きしにまさる険路となりました。
雨も降りぬるぬるする断崖に網梯子をかけてよじ登り、原始人さながらにつたかづらを頼って登らなければならなかったのです。
ここで発病する者が出て2名が幌泉に引き返します。更に、4名が陸路を諦めて船で大津回りとなりました。 

帯広で待つ晩成社幹部鈴木銃太郎のところに第一陣が到着したのは5月7日で2名でした。 

第二陣は8日、チオプシ(長節)川にそって十勝川に入り、徒歩で札内川をのぼってきた2名。

第三陣は9日、依田勉三たちで広尾村の地点で内陸に踏みいれ、タイキ(大樹)を通過して札内川を降って入植した10名。

第四陣は、発病した夫婦が漁師小屋で休養して20日に到着した2名です。

写真は襟裳岬の断崖