松前藩は砂金も財源でした。 徳川家康が松前慶広に蝦夷地の金山のことを聞き、佐渡・伊豆の金山が不振になったとき、奉行は使を派遣しましたが慶広は断りました。 しかし、元和2年(1616)慶広が亡くなると、・・・ (続きを読む)
蝦夷の時代21 (松前藩の財政・鷹)
慶広は初めて豊臣秀吉に面会した時に「鷹」を献上し、徳川の江戸幕府に対しても毎年献上しました。 この献上鷹の松前からの道中は、各藩の大名領へ手配され大名行列のようなものもしさであったといいます。 時代劇・・・ (続きを読む)
蝦夷の時代20 (知行主)
松前地には本州(内地)と同じように村を設け、五人組制度、村役人を通じて支配し、土地売買は禁止しました。 アイヌに対しては、和人との摩擦を避け従来通りとしましたが、これが後に和人世界との格差を生むことに・・・ (続きを読む)
蝦夷の時代19 (福山館の新築)
松前慶広は慶長5年から6年をかけて、徳山館の南の台地に福山館を築き、アイヌに対しては「城」、幕府には「館」と称しました。 徳川幕府の藩とはなっても米の取れない蝦夷地で無石の来賓待遇でした。 当時「城」・・・ (続きを読む)
蝦夷の時代18 (徳川家康の黒印状(制書))
蠣崎慶広は文禄2年(1593)3月末に帰郷しました。 秀吉より正月5日に与えられた朱印状(制書)を提示するとともに、東西のアイヌを集めて朱印状をアイヌ語で読み聞かせました。 そして、もし志摩守の命にそ・・・ (続きを読む)
蝦夷の時代17 (豊臣秀吉の朱印状)
天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐、そのあとの奥州検地、全国的な新たな秩序の動きが始まりました。 五代目蛎崎慶広(よしひろ)は、秀吉の奥州検地や全国的な新たな動きに対していち早く動きます。・・・ (続きを読む)
アイヌ文化のはじまり
チョット一休みで徳川幕府に入る前に振り返ります。 アイヌ文化の成立は12~13世紀ころといわれていますが、史料のうえで確認できるのはおおよそ15世紀ころからだといわれています。 そのころ、アイヌの人た・・・ (続きを読む)
蝦夷の時代16 (アイヌと和睦策)
蠣崎三代目の義広時代には、東西のアイヌ蜂起となり義広がこれを討っています。(1528年) そうして、四代目季広の時に和人とアイヌの交易に一つの決まりを設けました。 アイヌ商船往還の制 蝦夷の物産は、・・・ (続きを読む)
蝦夷の時代15 (繰り返されるアイヌの蜂起)
大館(現・松前)がアイヌに攻撃され相原氏は自殺しました。 蠣崎光広(二代目)は翌年の永正11年(1514)に、小舟180隻をもって大舘に移り、次男高広を泊館(江差町)に置きます。 そうして、使者を前後・・・ (続きを読む)
蝦夷の時代14 (和人地と和人の争い)
アイヌ民族と和人との戦いで、蝦夷地には民族間の大きな溝ができました。 それまでは、お互いに共存共栄の意識がありましたが、コシャマインの戦い後は敵対視した関係となり和人地という垣根が出来てしまいました。・・・ (続きを読む)