松前藩は砂金も財源でした。
徳川家康が松前慶広に蝦夷地の金山のことを聞き、佐渡・伊豆の金山が不振になったとき、奉行は使を派遣しましたが慶広は断りました。
しかし、元和2年(1616)慶広が亡くなると、まもなく砂金採取がはじまり幕府にも献上します。因みに、元和2年は徳川家康も亡くなっています。

最初は福島や松前をはじめとした千軒岳(せんげんだけ)を中心とする知内川・厚沢部川周辺でした。
寛永8年(1631)以降になると、西蝦夷地の島小牧(島牧)、東蝦夷地の沙流・静内・十勝・様似・国縫・夕張など各地で砂金採取がはじまりました。

松前藩は手形があれば簡単に許可をしていたのです。これが問題でした。
砂金掘りから運上(税)を取っていたからです。
元和5年には5万人、翌年には8万人が本州から蝦夷地を目指してやってきたといいます。ゴールドラッシュが蝦夷の時代にもあったのです。
一か月一人一匁の運上としたのですが、最盛期には一か月一人30匁採取したといわれ、一個160匁の砂金もあったといいます。
※一匁はメートル法で3.75g

当時、諸国から集まった鉱夫の中には、御禁制の切支丹が紛れ込んでいました。
蝦夷の地は、まだ取締りが厳しくなかったからです。松前藩主は「蝦夷は日本にあらず」と、明言しており宣教師アンジェリスを最初は優遇しましたが、のちに取締りを強化し、寛永16年(1639)には106人の切支丹を処刑しました。
※寛永14年(1637年)の島原の乱

砂金ブームは、元和(1615)~寛文(1661~1673)まで約半世紀の間でした。
和人の鷹待や砂金掘りが蝦夷地に多数入り込んで、一定期間滞在すると問題が生じてくるのは当然のことでした。
このことが、蝦夷の地でアイヌ最大の蜂起を生むことになります。