松前地には本州(内地)と同じように村を設け、五人組制度、村役人を通じて支配し、土地売買は禁止しました。
アイヌに対しては、和人との摩擦を避け従来通りとしましたが、これが後に和人世界との格差を生むことになります。

幕藩体制下に入った松前藩は本州他藩と異なり、藩士への禄に米を用いることができず、主だった家臣には徳川幕府に承認されたアイヌの人たちとの交易権を地域を限って分与しました。
これを商場(あきないば)あるいは場所と呼びます。知行主 (商場を給された藩士)は、年に1度みずからの商場へ船を出し、その地域のアイヌの人たちと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却しその収益でくらしをたてました。

商場ははじめから全道に設定されたものではなく、和人勢力の拡大にしたがって奥地へと広がっていきます。
寛永年間(1624~43)厚岸場所、元禄14年(1701)霧多布場所、宝暦4年(1754)国後場所→いずれも東蝦夷地。
貞享年間(1684~87)宗谷場所、寛政2年(1790)斜里場所→いずれも西蝦夷地。

鷹も武士社会の商品でした。鳥屋場(鷹を捕らえる場所)も設定されており、寛文ごろで島内約300カ所あり、そのうち120~130カ所は藩主直領、ほかは家臣の知行でした。

商場知行を与えられたのは上級家臣で、大多数は扶持米取り(主君から家臣に給与した俸祿の米)でした。
宝暦9年(1759)の記録によると、場所持ち59人、切米扶持の武士約150人、ほかに徒歩で戦う下級武士の徒士(かち)・足軽用で平常は農耕に従事した地下侍(じげざむらい)100人ほどいました。
明治の廃藩置県の時は、侍分985人、一代限扶持士19人、卒597人、一代限卒78人、計1679人でした。