大館(現・松前)がアイヌに攻撃され相原氏は自殺しました。
蠣崎光広(二代目)は翌年の永正11年(1514)に、小舟180隻をもって大舘に移り、次男高広を泊館(江差町)に置きます。
そうして、使者を前後三回にわたり出羽檜山の安東氏にこの事情を報告し、蠣崎氏は正式に安東氏の蝦夷島代官となりました。

蠣崎氏は実質的に蝦夷地にける和人の支配者となったのです。
蛎崎光広は、大館(松前)で和人掌握のために、西の上ノ国まで56キロ、東の箱館まで100キロと両方の豪族に睨みを聞かせます 。
また、諸国から来航する商船・旅人から税を徴収し、その半ばを檜山(安東氏)に献ずることとなりました。
光広は大館に代えて徳山館を築きます。この地はのちの福山すなわち現在の松前町で、ここが繁栄の中心になっていきます。

徳山館も、しばしばアイヌの襲撃をうけます。
移転した翌年永正12年6月、東部の首長ショヤ、コウン兄弟が蜂起し部下を引き連れて襲ってきました。
ところが又々、和解と称して祝宴で酒を飲ませて殺害しています。この手口も延々と和人に継承されていくのでした。

大永5年(1525)春、東西の蝦夷が蜂起し和人が多数殺されます。まぬがれた和人は徳山と天の川付近に逃れてきました。
光広はすでに死去して三代目義広の時でした。

享禄元年(1526)5月、徳山館に柵を越えて侵入しようとしたアイヌを、義広みずからが槍で突き倒し撃退。
次の年3月、西部の首長タナサカシが蜂起。義広は上ノ国の旧勝山館を本拠にして、武将を瀬棚内(せたな町)に派遣しますが勢いが強く破れます。
義広は旧勝山館でいったん和睦し、宝物を舘前に並べます。タナサカシが宝物を手にして喜んでいるところを、義広は強弓をもって射殺、あわてて逃げるところを皆殺しにしました。

天文5年(1536)タナサカシの女婿で西部の首長タリコナが来襲。義広は、またいつわりの講和を結び、館内に誘って宴会を催し、酔ったところを切り殺します。

コシャマインの戦い以来、蝦夷の和人攻撃は繰り返しおこなわれてきました。
蠣崎氏は二代三代にわたり、武力であれ謀略であれ、ともかくも撃退しつづけてきました。