松前慶広は慶長5年から6年をかけて、徳山館の南の台地に福山館を築き、アイヌに対しては「城」、幕府には「館」と称しました。

徳川幕府の藩とはなっても米の取れない蝦夷地で無石の来賓待遇でした。
当時「城」を無断で建てることは許されず、慶広は幕府に対しては「館」を新築したと言ったのでしょう。(現在残されている松前城は、幕末期に建てられた城)
館の北側には、大館から移転した阿吽寺(あうん)・法源寺などが集中した寺町を設置しました。

★旧福山館本丸表御殿玄関が、松前公園内に保存されています

慶長11(1606)年8月に完成した福山城は、寛永14(1637)年、城中から火を出し建物の多くを焼失、同16年これを修築。
嘉永2(1849)年、福山城新城構築の際、旧本丸表御殿の建物は、そのまま利用されました。
明治8年、開拓使の手によって福山城の建物は取りこわされ、表御殿と天守、本丸御門を残すのみとなります。表御殿は、同年開校された松城小学校校舎として充用され、明治33年新校舎建築の際撤去されます。
しかし、この表御殿玄関だけは、小学校正面玄関として利用され、昭和57年まで原形を保っていました。現在は、そのまま曳屋(ひきや)され、管理保存されています。
この玄関は、京都伏見城の一部を移したものと伝えられ、唐破風の曲線や懸魚(げきよ)は、桃山時代の埼麗な作風をもち、また外部の於竹梅に鶴亀、内部の五・三の桐と相対すおもだかる沢潟の紋章をはめこんだ暮又(かえるまた)は、よく桃山時代の特徴を示したものです。

 
★阿吽寺(1443年)・松前藩の祈願寺。本尊の「不動明王立像」は、平安後期につくられた作品。
★法源寺(1490年)・山門は道内最古。境内には、松前藩家老であり画家蠣崎波響の墓があります。

 

賓客待遇でしたが、綱吉の時に交代寄合となり、吉宗の享保4年(1719)、1万石以上に格付けされました。
しかし、これは建前であってすでに寛永11年(1634)家光の上洛供奉には、1万石の軍役負担をつとめ、享保元年家継結納の際には、万石並の献上を命ぜられていました。
参勤交代は対馬の宗氏と同じく三年一勤、のちにあまりの財政負担のため六年一勤を許されています。

藩域

和人地の推移

松前藩が設立された当時の蝦夷地におれる藩域は、おそらく石崎と乙部の間あたりではと推測されています。藩域にアイヌ民族を含む松前藩は、福山城下を中心に東西各25里(約100キロ)、東は函館(亀田)東部の石崎付近、西は熊石にいたる乙部付近を松前地(和人地)、その奥を蝦夷地とし、亀田から東を東蝦夷地、熊石から西を西蝦夷地としました。
和人は松前地にのみ居住を許し、それぞれ亀田・熊石に番所を置いて取り締まりました。