屯田兵は、北海道の開拓と北方警備を担うために、明治政府によって北海道各地に組織的・計画的に移住・配備された人たちのことです。 1873(明治7)年10月の屯田兵制度創設当初は、士族授産の目的もあったた・・・ (続きを読む)
琴似屯田兵 12 (東北処分4)
明治政府の東北処分 4 明治8年5月 斗南、庄内の人々が琴似に入って4日後に今度は仙台亘理の92戸が入地し、兵村は急に賑やかになります。 亘理の人々は既に屯田兵制度に先立って、主従一体となった胆振有珠・・・ (続きを読む)
琴似屯田兵 11 (東北処分3)
明治政府の東北処分 3 最初の屯田兵、琴似へ初めの屯田兵として琴似へやって来たのは、 斗南藩と庄内藩(酒田県)の人々でした。 彼等には明治8年5月13日までに青森港へ出頭せよとの屯田事務局の通知が既に・・・ (続きを読む)
琴似屯田兵 10 (東北処分2)
明治政府の東北処分 2 明治4年には廃藩置県が行われ、藩から県に行政が変わっていましたが、明治8年「札幌郡琴似村屯田兵」の募集は「仙台」「斗南(旧会津)」「庄内」という東北戦争に破れた藩が対象であるこ・・・ (続きを読む)
琴似屯田兵 9 (明治政府の東北処分)
東北処分 1 東北戦争後、仙台62万石は、半分以下の28万石に減封。 会津に至っては、23万石から3万石に減封の上、下北半島の斗南(むつ市田名部)へ遠流のように移封と、明治政府の東北処分は過酷を極めま・・・ (続きを読む)
琴似屯田兵 8 (伊達四十八館)
伊達政宗の時代には一時期、会津(黒川城)すらその領土の中にあり(現在でいえば宮城県の南半分、福島県の浜通りを除く部分、山形県の南部、新潟・栃木の一部までが領土だった)、軍事指揮下にある隣国を加えると、・・・ (続きを読む)
琴似屯田兵 7 (琴似神社)
会津藩の藩祖は「琴似神社」に祭られている保科正之です。 徳川二代将軍秀忠の私生児として生まれた正之は、思想家としても異彩を放ち、独自の神道の立場から「皇室尊崇」と「徳川家への絶対髄順」という思想を持つ・・・ (続きを読む)
琴似屯田兵 6 (入植者はどんな人達だったのか)
琴似屯田兵になったほとんどの人達が、明治維新の際「賊軍」とされ、いわれなき差別を受けた東北地方の武士達でした。(主に仙台藩亘理、次いで会津藩) 屯田兵は「官軍」と呼ばれた薩摩などの人達が士官として命令・・・ (続きを読む)
琴似屯田兵 5 (琴似が選ばれた理由)
琴似の地が、なぜ日本初の屯田兵村に選ばれたのか? 開拓使本府のある札幌に近かった 小樽との流通もチェックできる場所であった 以前から開拓が進んでいた土地であった 琴似の地は安政年間より調査が進められ・・・ (続きを読む)
琴似屯田兵 4 (屯田兵村)
屯田兵の設置は、明治8年の琴似兵村に始まって明治32年の士別、剣淵兵村までおよそ25年間に渡って行われました。 開拓使が廃止される明治15年までは、琴似、山鼻の2兵村と、江別太、篠津太の2試験地に設置・・・ (続きを読む)