明治政府の東北処分 2

明治4年には廃藩置県が行われ、藩から県に行政が変わっていましたが、明治8年「札幌郡琴似村屯田兵」の募集は「仙台」「斗南(旧会津)」「庄内」という東北戦争に破れた藩が対象であることは明らかでした。

屯田兵制度は北方防衛、開拓、士族の授産が目的だったといわれていますが、まず新政府としては、官軍にはむかった東北地方の士族を北海道へ移住させ、不平分子の芽をつみとろうという意図があったのでしょう。

現実として、明治18年以降、東北以外の諸県からも屯田兵の募集が行われるのですが、この時の東北士族達の心情としては、まさに「島流し」の感があったに違いありません。
さて、その召募の条件は、18歳から35歳迄の身体強壮な者とされ、応募者には、家屋のほか、鍋、釜、寝具などの生活用品、農具が支給され、入植から3年間は給助米があるとされていました。
これは少なくとも屯田兵にさえ志願すれば、餓死することは無いという保証でもありました。
しかし、先祖伝来の故郷を離れ、見知らぬ寒冷地へ、しかも開拓という経験したことのない作業へ従事するということは、よほどの決心が必要だったでしょう。

屯田兵に志願した人と残る人との間には「水杯を交し、お互いの無事を祈った」「泣きくずれて、別れの言葉も言えなかった」などという逸話が数多く残されています。