東北処分 1

東北戦争後、仙台62万石は、半分以下の28万石に減封。

会津に至っては、23万石から3万石に減封の上、下北半島の斗南(むつ市田名部)へ遠流のように移封と、明治政府の東北処分は過酷を極めました。

会津藩士が移住した斗南の地は、多くが火山灰の不毛地か、泥炭地に葦が群生する湿地帯で、公称としては3万石ですが、実収は7500程度であったといわれています。
この地で、なにより大変だったのは食料の確保でした。
はじめ一人一日三合の扶持米が支給されることになっていたのですが、凶作などの理由で、支給が減らされたり、遅配が続いたのです。
このため、大豆ばかり食べるので「はと」あるいは「干菜(保科にひっかけて)も食えぬ」と地元民からかわれたという話や、餓死をまぬがれるため犬の死骸なども食べたという記録も残されています。

また仙台藩においても事情は同じでした。
仙台藩は移封こそまぬがれましたが、大幅な家禄制限と知行制度の廃止を余儀なくされ、一門一家には一律の俸禄制がとられました。

かつて2万4千石だった亘理は、一門の扱いで58石5斗
これで、7800人といわれる家臣を養うのは不可能でした。
このように東北の藩士達は、賊軍の汚名を着せられ、日々の生活の糧もままならぬまま、明治という近代を迎えたのでした。

こうした状況の中で、明治政府の北海道開拓使は、明治8年「札幌郡琴似村屯田兵」を召募する旨の通報を「宮城」「青森」「山形」の三県、及び北海道の館藩に発送します。