伊達政宗の時代には一時期、会津(黒川城)すらその領土の中にあり(現在でいえば宮城県の南半分、福島県の浜通りを除く部分、山形県の南部、新潟・栃木の一部までが領土だった)、軍事指揮下にある隣国を加えると、およそ東北の半分が伊達の勢力だったことになります。
(幕末期は62万5千石、実高100万石といわれる)

「伊達四十八館」という言葉があるとおり伊達藩の領地は、藩内の要地に「要害」という城に準じる館を置き、「一門」などと呼ばれる伊達家の重臣がそれぞれ土地と人民を治めるという地方知行制がとられていました。
これは藩の中にさらに諸藩があると考えればわかりやすいでしょう。

例えば亘理を治めていた成実は、一大名のように自らの土地と家来を持ちながら、同時に重臣として上部の伊達藩の中に属していたというわけです。
(ちなみに、成実は伊達政宗のいとこにあたり、片倉小十郎とともに年少の頃
から政宗と行動を共にしてきた政宗の最高の重臣)。

このような大藩・仙台藩をもって、会津討伐の先ぽうに当たらせようと考えた のが新政府でした。

北海道の平野(伊達家の主な集団移住地)