琴似屯田兵になったほとんどの人達が、明治維新の際「賊軍」とされ、いわれなき差別を受けた東北地方の武士達でした。(主に仙台藩亘理、次いで会津藩)

屯田兵は「官軍」と呼ばれた薩摩などの人達が士官として命令を下すなか東北地方からやってきた屯田兵は、ほとんどが当初兵卒(軍隊でもっとも下の位)として扱われました。

幕末京都の治安のために文久2年(1862年)、京都守護職がおかれ会津藩主松平容保がこれに任命されます。
ここで登場する人たちの一部が、後に「琴似屯田兵」として琴似へ来ることになりました。

なぜ京都の治安維持を任されたのが東北の会津藩だったのか?
理由は、薩摩、長州、土佐等の兵力に対抗できる親藩(徳川家の親戚にあたる藩)として、その藩秩序においても、勇猛さにおいても、会津藩は幕府に絶大な信頼があったからです。