えんべつ町名の由来は、アイヌ語のウェンペッ( 悪い川)から。 何が悪いのかは不明ですが、松浦武四郎は「魚類至って少なし」また国鉄総長は「ここの川は水質が悪く、飲めないため」との説があります。 明治2・・・ (続きを読む)
中頓別町の旅 (砂金まつり)
町名の由来は、アイヌ語のトー・ウン・ペッ(湖から出る川)からで、頓別川の中流に位置するため「中」が冠してあります。 明治11年に、母村である頓別村が置かれましたが、頓別原野は未開拓で原始林のままでし・・・ (続きを読む)
西興部村の旅 (夢の国)
村名の由来は、興部の西方に位置するので、西の字を冠したものです。 興部とは、アイヌ語の「オウコッペ」より転訛したもので、「川尻の合流したところ」の意味です。 明治2年、えぞ地が北海道に改められた後、開・・・ (続きを読む)
興部町の旅 (道の駅おこっぺ)
興部は「おこっぺ」と呼びます。町名の由来は、アイヌ語の「オウコッペ」(川尻の合流しているところ)からで、興部川、藻興部川が合流しオホーツク海に注いでいたところから、このように呼んでいたとされています。・・・ (続きを読む)
足寄町の旅 (螺湾ブキ)
平成合併が始まる平成17年まで、足寄町は日本最大の面積を持つ市町村でした。 蝦夷の時代、積雪量が少ないこの地は、鹿が多くアイヌ人の絶好狩猟場だったといいます。 明治12年、 細川繁太郎、エン夫妻が白糠・・・ (続きを読む)
白糠町の旅 (恋問海岸)
徳川家光、寛永の時代(1624~)ころから東蝦夷の交易地として「白糠運上屋」も設置され取引が行われていました。 1800年(寛政12年)に 八王子千人同心、原半左衝門(原胤敦)ら50人が耕作のかたわ・・・ (続きを読む)
別海町の旅 (叫びの像)
蝦夷の時代は野付場所として、漁業で開けた町でした。 根室地方は漁期だけに入地し、永住が少なかったことから、明治3年ころ開拓使は漁場持ちに対して永住漁業を営む者を募集し野付に10戸移住しました。 しか・・・ (続きを読む)
斜里町の旅 (しれとこ斜里ねぷた)
シャリ運上屋の創設は1790年とされています。当初は宗谷場所の管轄でしたが、この年にシャリ場所を開設しました。 1806年にロシア船が往来、樺太のクシュンコタンに上陸し略奪が行われたため、翌年幕府は蝦・・・ (続きを読む)
美深町の旅 (チョウザメ館)
美深町は、旭川から国道40号で北上すると約2時間ほどで街中に入ります。 旭川と稚内の丁度中間地点くらいで、国道と並行して宗谷本線が走っており、更に、この国道と鉄道に寄り添うように北海道第二の大河「天塩・・・ (続きを読む)
木古内町の旅 (咸臨丸)
木古内駅は北海道新幹線が最初に上陸する駅になりました。 大きな駅舎となり、駅前には道の駅「みそぎの郷 きこない」が作られ見間違うほど広くなりました。 かつての木古内駅は正面に船模型をモニュメントに設置・・・ (続きを読む)