町名の由来は、アイヌ語のトー・ウン・ペッ(湖から出る川)からで、頓別川の中流に位置するため「中」が冠してあります。

明治11年に、母村である頓別村が置かれましたが、頓別原野は未開拓で原始林のままでした。
明治30年に北海道国有未開地処分法が制定され、3年後に中頓別地区の区画策定がなされましたが入植希望者はありませんでした。
しかし、頓別川で砂金が発見され注目を集めます。パンケナイ川で豊富な砂金が見つかったことを皮切りに人が集まりはじめました。更に、ペーチャン川でも新たな砂金田がみつかり、最盛期には枝幸郡には1万人もの人が入り込んだといわれています。
役所では人が住み「農業ができるように」と土地を準備。中頓別の開拓はこうして始まりました。かし、明治32年をピークに砂金は衰退していきます。

道の駅ピンネシリ

開拓の始祖は、広島県出身の樽原民之助です。北前船の船員から始まりオホーツクで漁師となりましたが不漁から砂金事務所の支配人となりました。砂金の衰退で明治34年原野に入り開拓を始めました。
明治42年、戸数が20戸、人口88人となり、 道徳安二が枝幸郡第10部(現在の中頓別町を区域とする)の部長となり、この日が開拓の日となりました。
大正5年、天北線中頓別駅が開業し急速に発展を遂げ、大正10年 頓別村(現浜頓別町)から分村し中頓別村となりました。

砂金まつり

町は秀峰ピンネシリ岳(704メートル)を中心とした山岳地で、南西部は標高500メートル前後の北見山脈、東部はポロヌプリ山(838メートル)をはじめとする高山をもつ山岳地。

砂金まつり

起伏状急峻で、これから発した頓別川、兵知安川の2川が中央部を北流し、多くの支流を合わせつつオホーツク海に。
この流域が平坦地及び段丘地を形成し農業地帯となっています。

「砂金まつり」はゴールドラッシュの歴史を残すペーチャン川を会場に開催されます。砂金掘りが行われ、砂の中からきらめく砂金を見つけるたびに歓声が上がります。