黒田清隆

1840年11月9日〈天保11年10月16日〉- 1900年〈明治33年〉8月23日)

薩摩藩士、陸軍軍人、政治家。

箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執り、明治に入り開拓長官として明治3年から明治15年まで北海道の開拓を指揮。
アメリカでホーレス・ケプロンに出会いスカウトし、開拓使最高顧問として迎え入れました。

生い立ち

天保11年(1840)、現在の鹿児島市で薩摩藩士黒田清行の長男として生まれました。黒田家は家禄わずか4石の下級武士でした。
当時の薩摩藩士には、明治維新で活躍する西郷隆盛、大久保利通などがおり、下積み時代は西郷の補佐役を務めていました。

1868年(明治元年)、28歳で箱館戦争の指揮を執り、榎本武揚率いる旧幕府軍を打ち負かしたことで新政府の信頼を得、明治3年には30歳で北海道開拓次官に任命されました。
ところが、戦後は榎本武揚助命を強く要求して、厳罰を求める者と長い間対立し、榎本のために丸坊主に剃髪します。明治5年(1872年)1月6日にようやく榎本らを謹慎、その他は釈放として決着しました。

開拓使として就任した黒田が行ったことは、アメリカから優れた人材を北海道に派遣することでした。自らアメリカに渡り探し当てたのが、ホーレス・ケプロンです。
当時66歳のケプロンは、現職の農務局長で大臣にあたる役職についていました。ケプロンは何度も面会に来る黒田の心に打たれ、北海道開発という重要な任務にあたる人物は自分しかいないと決意し、黒田と共に日本に来ました。これによって、他多数のお雇い外国人の招請の道を開くこととなります。

ケプロン

帰国後、開拓長官東久世通禧が辞任し、黒田は次官のまま開拓使の頂点に立ちます。黒田は、ケプロンと「開拓10年計画」を立て、10年間で1000万円、いまでいえば3兆円相当の予算を持ってアメリカの技術・資材・制度を導入しようというものでした。
また、東京に開拓仮学校を設け人材の育成をします。この学校が後に札幌に移り、現在の北大の前身となる札幌農学校となり、クラークによって開校となりました。クラークやエドウィン・ダンなど、多くの外国人を招きます。

ところが10年計画の2年目から資金不足に陥ります。
年間130万円でまかなうはずの予算が、590万円もの出費になってしまいました。黒田は資金の上積みと10年計画の延長を願い出ましたが、日本は経済難で中央政府は猛反対。結局内閣顧問という役職に左遷されることになります。
しかし、開拓を放り出すことはできず優秀な人材を北海道に移住させ、政府に再び予算の追加をださせます。黒田は、明治6年に事業を縮小し、即効性を求めて産業振興に重点を移しました。

開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京で要職も兼ねました。
明治6年の征韓論に際して、黒田は内治重視の立場から西郷らに反対します。明治7年の台湾出兵に際してもロシアの脅威を挙げて不可の立場をとり、出兵後には清国との全面戦争を避けるため速やかに外交交渉に入ることを唱えます。
この年、ロシアとの交渉にあたって黒田は榎本武揚を使節に推薦し、榎本が特命全権公使として樺太・千島交換条約の交渉と締結にあたりました。
黒田は、明治8年(1875年)の江華島事件をきっかけに、同9年2月に朝鮮と交渉する全権弁理大臣となり、日朝修好条規を締結します。

明治7年、陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられます。
同年、参議兼開拓長官となり、黒田は榎本ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に登用しました。

明治10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に成功し、開拓使で黒田が育てた屯田兵は、入れ替わりに戦線に到着し戦闘で活躍しました。

翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となります。

五代友厚

明治14年、開拓使廃止方針が固まると、黒田は開拓使の官営事業の継続のため、官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。このとき事業が赤字であったことを理由に、非常な安値を付けました。黒田は、事業には私利で動かない官吏出身者を充てるべきだとして優遇を弁護しましたが、払い下げの規則を作った大隈重信が反対。
黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、これを薩摩出身の政商・五代友厚の企みによるものだとして、激しく非難(開拓使官有物払下げ事件)。
払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退きました。

後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけました。
しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治20年(1887年)に第1次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて同21年(1888年)4月に第2代内閣総理大臣となりました。

黒田は北海道に大きく貢献した人物として名を残しましたが、政界きっての大酒のみでした。
開拓長官時代に商船に乗船した際に、酒に酔って船に設置されていた大砲(当時は海賊避けのため商船も武装していた)で面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射し、住民を殺害したことがありました。これは示談金を払って解決。

明治11年(1878年)3月28日、肺を患っていた妻が亡くなります。ところが酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺したのだという記事が新聞に載ります。この事件は政府によって病死という形ですまされました。

明治33年(1900年)8月23日、脳出血のため亡くなりました。享年59。葬儀委員長は榎本武揚でした。

写真は幕末の志士たちー陸奥宗光、五代友厚、黒田清隆、高杉晋作、坂本竜馬.西郷従道、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、岩倉具慶、明治天皇たちがおります