最上徳内

宝暦4年(1754年)-天保7年9月5日(1836年)

江戸時代中期から後期にかけての探検家・江戸幕府普請役。

生い立ち

出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身。元の姓は高宮(たかみや)。幼名は元吉。

実家は貧しい普通の農家で2男3女の長男でした。元吉は学校に通うことができず子守りをしながら寺小屋の窓際に立ち盗み聞きをして勉学に励みました。
そうして、丁稚奉公で煙草屋の行商で足腰を鍛え、後年探検家となる頭脳と体力の基礎を築いていきました。

江戸へ

父の死を転機として、26歳で江戸に出ました。父は貧しさの中で亡くなりましたが、自分は出世をしよう。それまでは故郷の土は踏むまいと誓ったのです。
著名な思想家である本多利明のもとで、医学、航海、地理、天文、和算、暦学など幅広い学問を学びました。

老中は田村意次の時代

最上の生まれたところ

このころ、徳川幕府は国内の財政難とロシアの南下問題に頭を抱えていました。
田村意次は蝦夷地の豊富な資源を開発することと、北辺の防備を強化するという二つの目的で、本多利明をはじめとした優秀な学者たちに実地調査と測量を命じます。しかし、本多は病を持つ身であったため辞退し、代わりに弟子の元吉を推薦。山口鉄五郎隊の人夫に属させました。
これを機に高宮元吉は、最上徳内と名を改めます。最上は故郷山形の最上川の勢いのある流れにあやかろうとしました。30歳の徳内にとって、まさに人生の転機でした。

最上徳内蝦夷へ

1795年、箱館から測量を開始。一行はアイヌの青年フリウエンを案内役とし、蝦夷の地理やアイヌの生活、風俗を調査し、釧路から厚岸まで足を伸ばした後、一旦江戸に引き上げて春を待って蝦夷地を訪れることにしました。
その時、単独調査に命じられたのが、最上でした。初回の調査では年齢や身分の低さもあって、末端の調査員にすぎませんでしたが、一躍トップに大抜擢となりました。こうして、農民出の最上は念願の侍の身分を得て、「国防」という重大な役目を負うことになりました。

1796年春、前回果たせなかった千島行きを敢行するため、供に連れていく通詞をアイヌのフリウエンとしました。
しかし、通詞は松前の役人と定められていました。それに反し最上は「建前ではなく本来の蝦夷地の姿を知りたい。千島のアイヌが語ってくれる言葉を、日本人の通詞に都合よく訳されては困る」。フリウエンは日本語をある程度理解し、短期間で隊員の名前も覚えた優秀な若者でした。

アイヌが日本語を覚えるのはご法度の時代。それでも最上はフリウエンと旅の合間に言葉をお互いに教えあいました。(当時松前藩は、蝦夷地の事情を秘密にする手段として、アイヌ民族の日本語使用を禁止していたのです)

択捉島の浜辺に上陸した最上たちに、村のアイヌ民族は迎え、その中に3名のロシア人がおりました。
ロシア人の頭はイジュヨといい、大男で最上に謙虚な姿勢はとるものの決して笑顔を見せません。本国に帰る船に乗り遅れ、アイヌたちに救われて本国に帰る機会を待っていたのです。
イジュヨは、外国人が日本の領土に入った際は、すぐさま捕らえで江戸に送っていたことを知っていました。最上は、帰国に尽力しよう。それまでは村でゆっくりくつろいで良いと言って、アイヌの村長の家でご馳走を振舞いました。

その後、イジュヨたちはエトロフ、ウルップをまわって国に帰ることが決まります。その間、最上はイジュヨから毎日ロシア語を学び、ロシアの事情を聴きました。また、兼ねてからの任務であるエトロフと、千島列島の最北東ウルップ島の調査も行います。
4ヵ月の蝦夷地調査を終え幕府への報告書作成のため、松前の城下町に戻りました。フリウエンは最上の指導で日本語の報告書を書く手伝いをしていました。これが町中の評判となり、幕府の下級役人・最上徳内は松前藩から危険人物として警戒されることとなりました。

この年の冬に、10代将軍徳川家治が死去しました。老中・田沼意次が失脚し、臨時雇いの最上も職を失いました。
最上の師・本多利明は有り金をはたいて蝦夷地渡航の支援を行いました。しかし、幕府の命令もなく蝦夷地に入ることは許されず、特に、最上は危険人物とみている松前藩はこれを見逃すはずはありません。
諦めきれない最上は、青森に留まり、寺小屋を開いて時が来るのを待ちました。

クナシリ・メナシの戦い

それから3年後の1789年、和人に虐待されていたアイヌ民族の蜂起「クナシリ・メナシの戦い」が起こりました。
幕府は調査のため、すぐさま役人を派遣し、その中に最上徳内も一員として入りました。いまや幕府の後ろ盾を得た最上は、堂々と部下を率いて蝦夷地へ入ります。松前藩の不正な交易で苦しめられているアイヌ民族の救済と正当な交易をさせようとしました。
そうして、ロシア人の動きを知るためクナシリ島を経てエトロフ島を再び訪れます。さらに、樺太ではアイヌの人々がサンタン人などの大陸系民族から圧迫を受けていることや、清国の勢力が及んでいることなどが分かってきました。
この野上の情報を確かめるために、間宮林蔵は樺太探検を命じられることになります。

大日本恵呂府の標柱

その後、江戸にもどった野上が、7度目の蝦夷地を目指すのは43歳の時で、幕臣・近藤重蔵の配下として、近藤をエトロフに案内する役目でした。
エトロフに案内した時に、近藤が目にしたのは岬に十字架の木がありました。この十字架は最上の古い友人が立てたものであることを話します。十字架は彼らの信仰するキリスト教の象徴でした。
最上と近藤は、エトロフ島が日本国であることを示す「大日本恵呂府」の標柱を立てました。これが戦後、日本とロシアとの国境問題で大きな影響力を持つことになります。

日高道の開削

択捉からの帰途、一行が十勝の広尾に着いたのは10月末でした。近藤重蔵が目にしたのは石の塔でした。最上は近藤に、この辺りは東蝦夷地でも難所中の難所で、あれは行き倒れや熊に襲われ亡くなった人たちの墓です。アイヌ民族の救済のために、道路開削を願い出ました。
近藤は自費で広尾の道路12キロを開削することを決め、最上を道路掛に命じました。しかし、このとき見分隊の総裁・松平忠明と意見が衝突し、免職されます。道路の開削はできましたが、江戸へ戻った徳内は忠明の失策を意見書として提出、忠明に対して辞表を提出しますが忠明はこれを受け取らず公職のままとなりました。

文化2年(1805)、遠山景晋のもとで8度目の蝦夷地となります。翌年には三陸海岸の調査。
文化5年4月、樺太詰を命じられ宗谷から渡り白主~亜庭湾~久春古丹(今の大泊)に上陸。更に、能登呂半島の東海岸沿いに南下して樺太最南端の岬を回って西岸を北上し富内(今の真岡郡蘭泊村)に上陸。7月には樺太警備の会津藩800名と共に樺太を離れました。

1809年、54歳になった最上徳内は、江戸に返されました。25年で蝦夷地に渡ること9回。ひたすらアイヌ民族と北方問題に没頭してきました。
最上は多くの地図とアイヌ語辞典、実用的な数学書、医学書などを著し、晩年は学者としてもその才能を発揮しました。
晩年はオランダ人医師シーボルトと親交を深め、間宮林蔵が調査した樺太の地図を彼に与えたのは最上でした。

1836年、最上徳内は江戸下町の片隅で81歳の生涯を閉じました。
蝦夷地探検と数々の先進的な著作、そしてアイヌ民族への貢献から比べると、晩年はあまりにも寂しく、報われないものでした。
最上の業績がシーボルトによってヨーロッパに知れ渡り、それが日本に伝わって再評価されるのは、彼の死からだいぶ後のことでした。

写真は最上徳内記念館(山形県村上市)