長谷川海太郎

明治33年(1900)1月17日 ~ 昭和10年(1935)6月29日

日本の小説家、翻訳家。

林不忘(はやし ふぼう)、牧逸馬(まき いつま)、谷譲次(たに じょうじ)の3つのペンネームを使い分けて活躍しました。
林不忘は時代小説「丹下左膳」シリーズ、牧逸馬は犯罪実録小説、家庭小説、翻訳、谷譲次は米国体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られています。

 

「姓は丹下、名は左膳。流儀は丹下左膳流」。悪人を斬って斬りまくる。痛快娯楽小説は昭和初期、新聞に連載されるや大人気となり、さらに映画化されると「丹下左膳」は国民的英雄となりました。作者林不忘は函館で育った人です。

生い立ち

幕府の金座役人を祖父に持ち、県立佐渡中学で英語教師をし、後にジャーナリストとして活躍する長谷川清の長男として新潟県佐渡郡赤泊村に生まれました。
父・長谷川清は北海新聞主筆として来道し、のちに犬養木堂の依頼で函館新聞の主筆に招かれました。海太郎が1歳のときで一家で函館に移住。
当時の函館は11紙の新聞社が競い合っており、そのうち最も売り上げの高いのが函館新聞でした。その後29年間にわたり函館新聞社長として函館市民に文化と知識をもたらすことになります。

海太郎は父の影響を強く受け、近所のハリストス正教会の鐘の音色を聞きながら育ちます。弥生小学校に通い作文はずば抜けており、当時皇太子の北海道巡啓に際しては海太郎の作文が台覧に供せられました。
明治45年、道庁立函館中学校(現函館中部高校)に入学、当時の函館は国際色豊かな港町であり、海外への憧れを抱き成長したといいます。
成績は中の下でしたが、父は子供の頃から英語を教え、また徳富蘆花「順礼紀行」を愛読。中学3年頃から石川啄木に傾倒、白楊詩社という文芸グループに参加し作詩に励み、4年の時には野球の応援団長として活躍。
ところが、卒業直前、学校で起こったストライキ事件の首謀者とみなされ、卒業名簿から外されてしまいます。60名の生徒が停学処分、日ごろから不良少年のレッテルを貼られていた海太郎は落第処分となりました。

大正6年、退学して上京、明治大学専門部法科に入学します。大学時代は英語・日本語の本を読み漁り、歌やエッセイを函館新聞の文芸欄に送り、大杉栄の家にも出入りしていました。
大学卒業後、アメリカ留学の決意を固め、父は行きの旅費だけを出す条件で同意します。19歳の夏、青函連絡船の函館桟橋で仲間に見送られて旅立ちました。
太平洋航路の香取丸で渡米し、オハイオ州のオベリン大学に入学しますが、黄色人種への差別が激しく、わずか2か月で退学。
その後は皿洗いやホットドッグ売り、鉄道線路の工夫などをしながら、アメリカ各地を転々と放浪します。混沌としたアメリカ社会において、得意の英語を駆使し、日本人風来坊「メリケン・ジャップ」として逞しく生き抜きました。このアメリカでの4年間の貴重な体験が、その後の作家としての基盤となっていきました。
大正13年、貨物船の給仕や船員として南米からオーストラリア、香港を経て、大連に寄港し、そこで下船して朝鮮経由で帰国しました。

流行作家

帰国後、函館新聞にいくつかの小説や紀行文を発表したのち、函館から東京へ拠点を移して物書きを目指し始めました。
「探偵文芸」の雑誌の編集を手伝う幸運に恵まれ、24歳の若き才能が怒涛の如く怪談ものや江戸ものを掲載するという超人的な仕事量をこなし、周囲を驚かせました。函館新聞には阿多羅猪児のペンネームで、アメリカの話題のコラム風「納涼台」などを連載。

翌年の大正14年、意欲と巧みな文章力を買われ、推理小説雑誌「新青年」に谷譲次で、アメリカで生きる日本人(日系人)単純労働者の生き方をユーモラスに描いた「めりけんじゃっぷ」、「海外印象詩」、「ヤング東郷」「ところどころ」などを発表。
更に、牧逸馬で大衆小説3本。コラム「海外探偵片聞」、オルチー夫人「謎の貴族」などの翻訳を掲載。
なんの実績もない新人作家に、これだけの紙面を提供する雑誌側の期待は大きなものがありました。

日本の文壇に彗星のごとくデビューした3人の作家

「めりけんじゃっぷ」で、禁酒法時代のアメリカ社会で日本人労働者の生き方をユーモラスに描いた谷譲次。婦人雑誌で通俗小説を発表し、主婦の熱狂的ファン層を獲得した牧逸馬。そして江戸の時代小説を専門とする林不忘。
こうして一人三役の作家を演じ、それぞれに強烈な個性を持たせ、昭和モダンの旗手として、日本に一大旋風を巻き起こします。

海太郎には3つのモットーがありました。
1・頼まれたら何でも書くこと。2・期日までには必ず届けて、編集者に手数をかけさせないこと。3・作品の善悪は少しも気にかけないこと、でした。
鎌倉の豪邸には3つの書斎があり、めりけんじゃっぷものを書く洋風な谷譲次デスク。時代もののを書く林不忘庵。そしてメロドラマやスリラー小説を書く和洋折衷の牧逸馬の間で、それぞれの作家になりきって執筆したといいます。

翻訳研究グループで香取和子と知り合い、昭和2年に27歳で結婚。鎌倉向福寺の一室を借りて新生活を始めました。

新聞連載

そうして、昭和2年の夏、東京日日新聞、現在の毎日新聞の学芸部長が月刊誌の中で偶然「針抜藤吉捕物覚書」の時代小説が目に留まりました。作家の林不忘を調べてみると、何と谷譲次と同一人物でした。
部長は、編集会議を開き次の新聞小説に林不忘27歳を推挙しました。しかし、天下の全国版ですから、若手の起用を幹部はこぞって反対。
学芸部長は「私は彼に記者生命を賭けます」の一言で大抜擢を受けました。
海太郎を訪ねた部長は、「何でもいいですか、ライバルの新聞社たちをびっくりさせる大衆小説を書いてください。例えば、最初からやたらと人を斬りまくるような」。数日間考えて、主人公として片目片腕のニヒルな剣豪を思いつきます。名前は簡単に、そして字画が多く、語呂が良い「丹下左膳」を思いつきました。

こうして、昭和2年10月、林不忘の歴史小説「新版大岡政談」が、東京日日新聞と大阪毎日新聞で連載が開始されるやいなや、大変な反響を呼びました。
当時は金融恐慌の真っただ中、失業者が溢れ、共産党員の一斉検挙、農村の疲弊など、まさに激動の時代でした。
そうした中、現実とかけ離れたこの物語は、美剣士でもなく豪傑でもない、片目片腕の武士が、剣を振るって悪者を次々と倒していく様に、国民は痛快さを見出したのです。連載の1年後には映画化も決定し、東京日日新聞の売り上げ部数は増していきました。

そうして、また大きな仕事が舞い込みました。それは「めりけんじゃっぷ」を描く谷譲次を押し出した「中央公論」の特別企画でした。
昭和3年から1年超にわたって、中央公論社特派員の名目で夫婦で、釜山からシベリア鉄道を経てヨーロッパ14か国を訪問し、その旅行記は谷譲次名の「新世界巡礼」として同誌に連載されるものでした。
物見遊山の豪華旅行のようでしたが、丹下左膳シリーズの執筆に追われていたため、行きのシベリア鉄道の中で、窓外の風景を楽しむ暇もなく、ひたすら原稿を書き連ねました。
ロンドン滞在時には、古本屋で犯罪者の資料を買い漁り、1929年から33年にかけて『中央公論』に「世界怪奇実話」を牧逸馬名で連載。

一方、欧米出発から2か月後、丹下左膳の映画が封切りされます。大河内傅次郎の丹下左膳は、「鞍馬天狗」と並び新時代のヒーローとして、観客を夢中にさせました。
さらに、谷譲次で世界20か国以上を旅しながらまとめた見聞レポートを、1年にわたり中央公論に連載。その後、「踊る地平線」と題して中央公論の書籍出版第一号として発行され、ベストセラーとなりました。

作品の多くが、雑誌や新聞の掲載が終わると舞台化、映画化されるという、新しいタイプの作家として、デビューからわずか5年の間に文壇トップの座に登り詰めました。
サラリーマンの年収が千円、総理大臣でさえ8千円の時代に、海太郎は7万8千円という破格の年収となります。当然やっかみもでて、文壇から批判を受けることもありました。特に、丹下左膳シリーズは、「時代背景が出鱈目で文学ではない」と激しい批判でした。しかし、彼は職人気質に徹し、理屈を嫌い一切言い訳をしませんでした。

「大衆文学から『文学』の二文字を抹消する必要がある。なまじ文学などと言うから、理論や批評が出てくるのだ。興味と慰安となんらかの人生的啓発があれば、読み物で結構である。僕は自分の書くものが文学でなく、ただの読物でありたいと願っている」

昭和9年3月21日、函館市は大火に見舞われ、全焼2万600戸、死者2千人という大惨事となりました。父の経営する函館新聞も焼失しますが、この時、海太郎の出資で新社屋を建て、函館新聞は再建を果たしました。
これを最後の親孝行とし、翌年の昭和10年6月29日、持病の喘息の発作で急死しました。まだ35歳、あまりに惜しまれる夭折でした。

写真は鎌倉市妙本寺の海太郎夫妻の墓石横に建てられた碑。
海太郎が腰を下ろして想を練ったという巨石の上に墓石が立てられています。

菊池寛は「ジヤアナリズムが、作家に無理な仕事をさせなくなるとすれば、我々に取っては、一つの救いである。」(『文藝春秋』1935年10月号)