永倉新八

天保10年(1839)江戸生まれ、大正4年(1915)に没す
最後の剣士

新選組は会津藩が雇用した臨時の警察官です。
幹部は13名でしたが、生き残ったのは二番隊組長の永倉新八だけです。永倉は、近藤・土方、一番隊長沖田総司と双璧の剣の使い手で四天王の一人です。
京を追われ近藤勇とは甲府の戦いで決別し、新たに靖兵隊を組織し奥羽戦を繰り広げます。
しかし、江戸に逃れて松前藩に匿ってもらい、明治に入り杉村義衛と改名します。
樺戸集治監の撃剣師範を務め、その後東京で道場を開き、余生は小樽で暮らします。亡くなる2年前に、小樽新聞に新選組回想録を残し77歳で亡くなりました。武士道・剣一筋の人生でした。

松前藩を脱藩

1839年、江戸の松前藩邸で生まれます。跡継ぎを望む父の期待に反し、19歳の秋に「剣を全うしとうございます」と置手紙を残し脱藩。近隣道場に相手がいなくなり23歳の時には武者修行の旅に出ます。

偶然立ち寄ったのが、牛込にある「天然理心流・試衛館」という小さな道場。
師範は5歳年上の近藤勇でした。鋭い目つきで睨みつける新八に対して、近藤は穏やかな目つきで、腹を出したまま竹刀を構え、微動だにしません。
竹刀と竹刀がぶつかったその瞬間、得意技「巻き落とし」が決まり、近藤の竹刀は床に転がりました。
「勝った」と思ったその時、近藤はすぐさま両手を突き出し、身構えたのです。飛び掛かろうとしたその瞬間、近藤の針のような細く鋭い眼光が飛び込んできます。「打ち込めば竹刀をつかみとられる」、本能が新八の動きを止めました。
「いや! お見事」近藤は構えをゆるめ、微笑みかけてきました。
これが、近藤と新八の出会いで、この日以来、試衛館をたびたび訪れるようになります。

京都に移った将軍家茂の警備と、京都治安維持のために浪士隊募集が試衛館に届きます。
1863年、近藤を筆頭に、土方歳三、沖田総司など試衛館の仲間と共に25歳の永倉新八も京都に旅立ちます。
京都壬生に落ち着いた彼らは、会津藩主のもとで「壬生浪士隊」を結成、禁門の変で治安を乱す長州藩の脱藩浪士らを四散させる活躍をみせ、幕府より「新選組」の名を賜りました。

池田屋事件(1864年7月8日)

壬生浪人隊の臨時警察が、歴史に残ることとなったのが池田屋事件でした。
この事件がなければ、明治維新は早まったであろうと言われています。
長州藩士ら20数名が池田屋に集まり、京都市中で大規模な争乱を企てる計画を立てていたところに4名で乗り込んだものです。
この4名が、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助でした。永倉は左の親指を切り落とすほどの大怪我を負いながらも果敢に奮闘します。

この時のことを、近藤は田舎にマメに手紙を書いており、その後経緯が良くわかることとなります。ところが、この後に絶対の信頼を置いていた近藤に対して、永倉は不信感が生まれることになりました。
1867年、幕府は大政奉還してしまいます。拠り所を失くした新選組は薩摩・長州に敵対し、幕府再興を願う武士たちと共に「鳥羽・伏見の戦い」を起こします。
新選組の勢力は、最盛時の300名から44名にまで減ってしまい、しかも、江戸に到着するまでに残ったのは27名。江戸で新たに140名ほど集めますが、またも敗退。

新八は近藤に切り出しました。「近藤さん、やっぱり会津藩のもとに行こう」。これに対する近藤の一言で新八は袂を分かつことになりました。
近藤、「新選組の局長が誰であるのかを忘れたのか」。
新八、「私は同盟こそしていたが、あなたの家来になった覚えは一度もない」
この二人は二度と再会することはなく、新八は会津へ、近藤は新政府軍に捕らえられて打ち首の刑となります。慶応4年、9月8日をもって明治元年となりました。

会津での奮闘むなしく、命からがら江戸に戻った新八は松前藩邸に逃げ込み、家老の計らいで国元の北海道・松前へ渡ることになります。明治2年新八31歳でした。
ここで松前藩お抱えの医師、杉村松柏の養子に迎えられ、娘米子と結婚。
これによって、新政府がやっきになって探していた新選組元隊士「永倉新八」は永久に消え去りました。

明治8年ころになると、維新戦争のすさまじさは忘れ去り、元幕府の武士たちも徳川家を罵る世の中になります。
「昔、武士には意地があった。それが今は、自分を守るために、武士の心までも捨ててしまったのか」仲間が死んだ今、唯一生き残った新八は、近藤勇との出発点であり、別れの地となった東京へ旅たちます。37歳の時でした。
近藤が処刑された板橋で、新選組隊士の名を刻んだ殉難の碑を建立。この碑を建てることで、新選組の仲間は朝廷の敵ではなく、国のために命を投げ出したこと、武士道を貫いたことを証明したかったのでしょう。

明治15年、44歳の時に松前藩のよしみで、月形に新設された樺戸集置監の剣術師範として招かれます。6年にわたって指導をしたのち、再び上京して牛込や浅草で道場を開き、若者に剣術を叩き込みました。
明治32年、61歳の時、息子夫婦と孫の住む小樽を永住の地と決め、北海道に戻ります。余生を送りながらも、たびたび札幌へ出かけては北大の剣道場で学生たちに剣道を教え、亡くなる2年前、永倉新八の名で小樽新聞に新選組回想録を連載し、それまで知られていなかった新選組の新事実を発表しました。
大正4年、小樽で77歳の生涯を終えます。

新選組の映画を何本か見ましたが、史実では面白みがなく皆脚色をしています。
近藤勇・土方歳三を主役にしたものが大半で、永倉を主役にした小説やドラマはありません。
新田次郎の「壬生義士伝」が、永倉を一部参考にしたのではないかと思います。
近藤勇は甲府の城を守れば大名にすると言われ舞い上がります。
百姓から武士・大名の出世に人が変わります。永倉は、武士の出身だったことが、二人を決別させることになりました。