吉田善太郎

1861年4月~ 1916年12月24日

札幌市の開拓功労者の一人。
陸奥国岩手郡上田村(現:岩手県盛岡市)の
南部藩出身。
豊平村農会初代会長・藍綬褒章受章

札幌の豊平区と清田区の境を流れる小川は
「吉田川」といいます。
しかし、この川の名が人の名前から付けられた
ことを知る人は少ないと思います。
現在は札幌の中心から車で20分ほどの住宅地となりましたが、明治30年代には「つきさっぷ地区」と呼ばれ陸軍第25歩兵部隊が駐在し、司令本部もありました。この陸軍の敷地2千町歩も「吉田善太郎」の土地を寄付したものです。
更に、「八紘学園」「東月寒しらかば会館」「東月寒公園」は吉田善太郎の敷地内で、白石区の小学校や大谷地まで大地主です。
これらの土地は厳しい開墾生活に根を上げて離農する人々から少しづつ譲り受けたものでした。

月寒神社の境内に「吉田善太郎の碑」があり、清田区のコカ・コーラボトリング工場の裏手に「吉田用水記念碑」が建っています。                       

吉田一族

吉田家は南部藩に仕える藩士(岩手県盛岡市)でした。
明治4年の廃藩置県で職を失い、開拓使募集に応じて月寒村(月寒中央通7丁目)に入植し木炭製造を始めます。

善太郎は明治14年に20歳で父を失い家業を継ぎ、明治20年に大谷地の23万坪の借下げを受けます。働き者で現在の福住、月寒東、北野、清田、大谷地、野幌までのエリアに小作人30数戸で切り開いていきます。

明治24年に稲作の水田のために厚別川から白石に抜ける灌漑用水路を完成させました。これが現在の吉田川です。
我が家のある高台は酪農地で、清田・大谷地域は水田だったのです。
吉田家は今のコープさっぽろの近くに住んでいました。

しかし、その後善太郎は様々な事業で失敗し、長男である善助にわずかな耕地と馬5頭、そして莫大な借金を遺して亡くなりました。
家計が火の車ながらも、善助はアメリカに渡り畜産を学び、明治末期に日本で初めてのホルスタインを輸入します。

ところが、善助は突然方針を変え牛から馬に転換したのです。
近い将来、日本でダービーが始まり、近代競馬の幕が切って落とされることを知っていたのです。
昭和4年、善太郎の長男善助は、白老社台地区に移住します。
アメリカよりサラブレッドを購入し、社台牧場を創設し、後に善助の三男善哉は、千葉社台牧場(後の社台ファーム千葉)を設立し社台グループを作ります。

サラブレッド牧場に専念し、今日の競走馬の基礎となりました。
善太郎の開拓した土地はすべて売却し、現在、子孫の吉田3兄弟は白老・千歳・追分にそれぞれ社台牧場を持ち、サラブレット生産を行っています。