大友亀太郎

 

 

天保5年(1834)小田原生まれ
      明治30年(1897)に没す

 

大友亀太郎は、札幌の小学校教科書副読本にも登場する人物です。
江戸の末から蝦夷地に御手作場つくりに来ていましたが、明治になって亀太郎は開拓使の方針に腹を立て、辞表を出して故郷の小田原に帰るのですが、開拓使に残っておれば間違いなく、北海道の歴史は変わったと思います。

 

 

二宮尊徳門下生

亀太郎は「天保の大飢饉」の年に、現在の小田原に農家の長男として生まれます。幼い時から算術を得意とし、22歳の時に衰退していた村を救い、その功績が知られて二宮尊徳の門下生となります。ここで本格的に報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を学びました。

1858年(明治まで後10年)に、幕府は尊徳門下に「蝦夷開墾」の依頼をします。すでに尊徳は亡くなっており、一門は亀太郎を推薦しました。
農民から帯刀をあずかる武士となります。苗字を出身村「西大友」から「大友」と命名し、五稜郭内の箱館奉行所務めとなります。24歳の時で、任務は「新天地に見本の生活場」を作ることです。
奉行所が最初に命じた場所は「木古内村」でした。箱館と松前の中間地で、現在北海道新幹線上陸で賑わっている町です。大木を切り、土を耕し、田畑を作り、新潟から24戸の移民団を入植させます。
次に命令された場所は、新幹線の到着する「北斗市の大野村」です。こちらも48戸の入植者の受け入れに成功させ、8年間にわたる開墾作業で奉行所は実力を認め、これから蝦夷地中心となる石狩地方の開墾を命じます。明治維新の2年前亀太郎32歳でした。

察歩呂村(さっぽろむら)

石狩平野を流れる川をアイヌの人たちは「サリ・ポロ・ペッ」(その葦原が・広大な・川)、また「サッ・ポロ」(乾いた大きい)と呼んでいたことから札幌川と名付けます。これが明治に入り豊平川となります。
札幌川の上流は一帯が乾燥した広大な土地だったため、下流が農地に適していると、先人からアドバイスを得ておりました。

旧札幌村・現東区元町にある札幌資料館

現在の函館本線が通っている一帯は、森林地帯、南は乾いた大地、北側が田畑に良いと目処を付けます。亀太郎は、フシコサッポロ川(現・伏古川)の上流周辺地域を、官による援助のもとに農民を入植させる「御手作場(おてさくば)」として定め、道路や橋などの工事に着手します。これが現在の東区元町地域で、拠点となった当時の場所は記念館として保存されています。
武士社会の終わりに村をつくり、この地を「察歩呂村(さっぽろ)」と名付けました。

当時の最新鋭技術を駆使して整備が行われ、およそ4キロメートルに渡る用排水路の建設を実施します。これが、後に創成川の土台となる「大友堀」の前身で、札幌川(豊平川)の支流・胆振川から水を引き、伏古川まで通じるものでした。
現在の中央区南3条東1丁目から北6条東1丁目まで北へ直線で掘り、ここから斜めに察歩呂村に引き込みます。
二宮尊徳に学んだ報徳仕法が取り入れられ、周囲から「百万両の大工事」とも呼ばれました。未開拓の土地に用排水路が設けられたことで、札幌における街づくりの起点となったのです。
現在もこの大友堀は、創成川の一部分として残され、斜め通りは、堀を埋め立て、道路として今も残っています。

亀太郎は続いて橋の建設を始め、移住者受け入れ体制が整うと、東北・北陸地方から20戸、70人ほどの農民を呼び寄せ本格的に開墾に取り掛かります。
この大友堀の両岸に入植者の住まいが建ち、用水は飲み水であり、石狩川から伏古川へと結んだ物流の輸送船にもなったのです。模範農場として、米、大豆、小豆、ジャガイモ、大根、キャベツなどを作らせ、さらに蕎麦やエンドウなどの種子を蒔き、その過程や結果を記録していきました。
これは、まだ開拓使が設置されていない先駆的な試みでした。

明治維新

明治維新で江戸幕府が倒れ、時代は変わります。
明治2年、新政府により設置された開拓使は亀太郎をそのままの形で雇い入れます。そして、この大友堀を札幌の東西の基準線にし、札幌の区画割りを始めました。亀太郎はそれまで開墾したところを開拓使に引き渡し、新たに当別を開墾すべく、新政府軍との戦いに負けた旧会津藩士たちを入植させようとしました。
ところが、開拓使から会津藩士の入植を見合わせるという意向が伝えられ愕然とします。
辞職を決意。開拓使は何とか止めようとしますが、明治3年6月、亀太郎36歳で故郷の小田原に帰り「大友堀」はそれ以後、亀太郎の偉業を残すために付けられた名前です。

会津藩士が、殿の命と引き換えに、蝦夷地に向かった場所は現在の余市。
亀太郎が指定した当別は、仙台支藩の岩出山藩が、二転三転の変更願いでようやく獲得した原野でした。

二宮尊徳記念館

小田原市にある「尊徳記念館」は小田原城の向かい側にあります。
酒匂川の上流には金次郎の生家が保存され観光施設になっています。生家を訪れた時に、全国の学校にあった「二宮金次郎の写真と銅像は何故無くなったのか」と尋ねました。「戦時中に金属類は回収、戦後GHQが上陸した時に、日本人は気を利かせて尊徳も天皇陛下の肖像と一緒に外してしまった」と答えてくれました。

ハルニレの木

明治維新と太平洋戦争の二度に渡って、日本はそれまで築き上げてきたものを捨て去り、舶来に依存してしまったのでしょう。尊徳の孫になる「尊親」は、明治30年に十勝に団体を率いて開拓に入り成功を収めます。
十勝川の河口にある「豊頃町」で、河川敷には樹齢200年の「ハルニレの木」がその後の開拓者を迎え入れました。この木はテレビCMや写真家にも馴染みとなった木です。