松浦武四郎 まつうら たけしろう

文化15年2月6日(1818年3月12日)
~ 明治21年(1888年)2月10日)

現在の三重県松阪市小野江町で農民の四男として生まれる。

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家、好古家。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数あります
蝦夷地を探査し、北加伊道という名前を考案しました。                                             
    
北海道ゆかりの人で、最も人気があるのは「北海道」と命名した松浦武四郎です。留萌の小平町に銅像があるのですが、どれだけ健脚のある大男なのかと思えば身長1m45cm、足の大きさ24cmです。
松浦武四郎の碑は全道で100ヶ所は建てられているでしょう。
ほんの一部を紹介します。

松浦武四郎の像・小平町

● 留萌郡小平町
   にしん文化歴史公園 歌碑
  「名にも似ずすがたやさしき女郎花な
   まめき立てるおにしかの里」

● 河東郡音更町下音更鈴蘭公園 歌碑
  「此のあたり馬の車のみつぎもの
   御蔵を建ててつまま欲しけれ」

● 勇払郡厚真町豊里 歌碑
  「えみしらもしらぬ深山に分け入れば ふみまよふべき道だにもなし」

幕末のまだ蝦夷地が開けていなかったころ、自費の探検家として3回、幕府の役人として3回、あわせて6回足を踏み入れました。
アイヌの人たちの案内で奥地までくまなく歩き、それを記録に書き、地図を作り上げ、どのように開拓を進めたらいいのかを意見書としてまとめました。

蝦夷地を探検した人は武四郎以前にもおりましたが、彼が異質だったのは行く先々で、見た風景や、人々の暮らしのようす、気にかかること、不思議な話などを野帳に筆で書きとめ、後にこれを清書して出版をしたことです。
その数は56点、383冊にのぼります。
そうして、一般の市民のために分かりやすく石狩日誌、天塩日誌、十勝日誌、夕張日誌を出版しました。

更に蝦夷地名3冊、蝦夷漫画2冊、「近世蝦夷人物誌」9巻などと続きます。
松前藩を暴露したものもあり、松前藩の刺客に狙われて、江戸の町を逃げ惑うこともありました。
武四郎は探検家としてだけでなく、紀行文を書き、詩歌を詠み、絵画を描き、考古学、天文学、地理学、植物学、民俗学に通じた万能の人でした。
これらの書物はいくつかの雅号(ペンネーム)で出版したのですが、その雅号の一つに「北海道人」があります。このペンネーム用いるようになったのは嘉永元年(1848)のことで、明治維新の20年前になります。さすがに「北海道」と最初からは命名はできなかったのでしょう。

生い立ち

文政元年(1818年)伊勢の国、現在の三重県(津市と松坂市の中間)の生まれ。
裕福な庄屋の四男として生まれ、7歳から「読み書きソロバン」、13歳で「論語」を学びます。
生家は今も伊勢街道沿いに建っているといいます。お伊勢参りの参宮街道筋であったことで、北は東北、南は九州から言葉もまちまちな人の群れを見ているうちに旅に出たいと思う環境があったのではないかといわれています。

16歳で実家をあとに江戸へ出るのですが、その後21歳長崎に入るまで日本中をよく歩きました。長崎で6年間過ごし朝鮮に渡ろうとしたのですが、蝦夷地の形勢と北方探査の緊急性を聞き北に向かうことになりました。

明治維新により、新政府に蝦夷地開拓御用掛としてつかえ、明治2年に開拓使が正式に発足すると「幕府時代からの蝦夷通」として、51歳で開拓判官という大役を与えられます。
発足後9日目に、開拓使長官の鍋島直正に「道名之義につき意見書」という蝦夷の名称改正の候補名を提出します。
蝦夷地に代わる新しい名称として6つの候補名をあげ、11国86郡を置くことを提案しました。11国とは渡島、後志、石狩、天塩、北見、胆振、日高、十勝、釧路、根室、それに千島です。

蝦夷地に変わる候補名としてあげた地名は次の通りです。
「日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北道、千島道」の6案でした。
結局「北加伊道」をもとにした北海道になるのですが、これは武四郎が天塩川を探検したとき、音威子府の筬島の長老アエトモから、「カイとはこの国に生まれた者のこと」と教えられ、「カイこそアイヌの人々の国にふさわしい」と考えたからです。

この候補名を見て感じるのは、例えば「陸奥国」とか「下野国」などのように「国」ではなく、「東海道」や「中山道」のように「道」がついていることです。
武四郎は最初から、この北の大地を国よりも大きいもの、つまり数々の国を結んだ「道」を意識していたのでしょう。
明治維新の改革で、国名が「県」にかわるとき、開拓の途上にあった北海道だけはこの地名を継承し、道内の国名もそのまま残ることになります。
また、武四郎はアイヌ語の地名は、その土地の風土を知り、地理の上でも貴重な文化遺産であることに気が付きます。
例えば、江差をアイヌ民族は「エサウシ」とか「エサウシイ」と言っていました。これは、「山が海岸まで出ている所」という意味だったのです。こうしたことから、地名はアイヌ民族の発音を踏まえて漢字を当てるのが一番良いと判断しました。

ところが、半年後に武四郎は開拓判官を突然辞職します。
判官といえば大臣の下の次官に匹敵する高級官僚でした。彼が身を引いた理由は、政府のアイヌ民族に対する仕打ちでした。
「明治維新により世の中が近代化しても、役人は北海道の先住民族であるアイヌの人々の存在を無視し、強盗のように物を奪い取る。これでは幕府時代と少しも違わない」という無念さで自ら職をなげうちました。

 

私は、松浦武四郎の「近世蝦夷人物誌」をテーマとして絵を描きたいと思っています。この本の出版は安政4年(1857)に箱館奉行所に提出したのですが、生々しいものであったので公のものとなったのは明治に入り、武四郎が亡くなったあとです。武四郎が最も新政府に言いたかった一冊だったといえます。人物誌は99人の老若男女アイヌの姿が書かれています。アイヌに対する偏見(野蛮・乱暴など)が強くあった中で、優れた能力を持ち人徳もあり、幕府や藩の方針に服している者も多くいました。