五稜郭内部

幕末の「箱館五稜郭」には、各藩が有望な若手藩士を視察として派遣をしていました。箱館は外国との貿易港となり、蝦夷の情報を入手したかったのです。
後に活躍する榎本武揚や鍋島藩の島義勇なども箱館奉行所を訪れ、松浦武四郎から多くの情報を得ていました。更に、蝦夷の奥地にまで探検で入り込んで調査をしていたのです。

土佐藩からも派遣されており、坂本龍馬はその藩士から蝦夷情報を聞きます。1864年6月、龍馬は幕府の「黒龍丸」で蝦夷に向かう途中、江戸で池田屋事件(1864年7月8日)を聞き、同志の北添らが新選組に斬殺されたことを知り挫折します。
しかし、慶応3年(1867)3月6日の「坂本龍馬書状」が残されております。
この書状には「蝦夷地に新しい国をつくることは、私の一生の願いである。
一人でもやり遂げたい」(京都大学付属図書館所蔵)。
龍馬は、なぜ蝦夷地を目指したのかといえば、血気溢れる浪人たちを蝦夷地に向かわせ、北辺の開拓と防備にあたらせるためでした。後に、これが屯田兵として実を結ぶことになります。

龍馬の家系

1835年(天保6年)、土佐藩郷士の家に坂本龍馬は2兄2姉の末っ子として生まれました。坂本家で男子が産まれたのは、高松家に嫁いだ姉千鶴の2男だけでした。この第一子太郎を朝廷の命で、子供のいなかった龍馬が遺跡養子として向かえ「直」と改名します。
第二子の習吉は、坂本家長男権平の養子として向かえられ「直寛」と改名します。

「直」は、龍馬と一緒に海援隊で活躍しますが、龍馬が暗殺された後、新政府が設置した箱館府の権判事に任命され蝦夷地開拓を目指します。
しかし、旧幕府軍の攻撃で青森に撤退させられ、その後、宮内省の職員などを勤めますが体調不良で辞職し、高知で57歳(明治31年)の人生を閉じます。
坂本家の長男に養子で入った「直寛」が、坂本家5代目当主となります。

龍馬の夢を引き継いだのは甥の坂本直寛

坂本直寛

龍馬の意思を継いだのが直寛で、土佐の自由民権運動家として活躍をします。「言論集会の自由」などを訴え、投獄されたこともあります。
獄中で聖書に親しみ、自由や平等の国をつくろうと北海道開拓を決意し北見にキリスト教をバックボーンとした「北光社」を設立。
明治30年(1897年)5月に家族など約100戸を従えて北見クンネップ原野へ到着、開拓が始まります。
現在その名残が、「北光社農場本部跡」「坂本直寛顕彰碑」などに残されています。今はなくなってしまいましたが、ふるさと銀河線の北光社駅はその移民団の名前から付けられたものです。

羅臼町(うらうす)は中西部に位置し、明治20年樺戸集治監(月形町)の囚人によって道路(現在の国道275号)が開削され入植がはじまります。
明治32年には月形村から浦臼が分村しました。現在はワイン用ぶどうの栽培が盛んで「東洋一のブドウ畑」があります。

坂本龍馬の甥の坂本直寛や実兄の坂本直家の遺品などに併せて、坂本龍馬に関する資料を紹介しています。

札幌から国道275号を北上すると浦臼町があり、更30分ほど走ると新十津川町です。この道沿いに、浦臼郷土資料館があり興味深い坂本龍馬の資料が展示されています。

1893年(明治26年)、高知県から武市安哉らが浦臼町札的(さってき)に入植し聖園農場を創設しました。武市安哉は武市半平太や龍馬とは親戚でした。
そんな浦臼の地に坂本直寛がやってきたのは北見入植の前の1896年(明治29年)。
北見開拓の協力を求めて同じ高知県を故郷とする聖園農場の人々のところへ立ち寄ります。
(しかし、武市安哉は明治27年に脳溢血で死去していました)
1897年に北見に到着した北光社の中心人物だった坂本直寛は、北見の農場開拓主導を1年ほどで切り上げて、妻と4人の子供を連れて浦臼聖園農場に再びやってきて農場を継承します。

坂本龍馬家の墓

「直」が57歳(明治31年)で亡くなり妻の留が浦臼に1899年(明治32年)、坂本龍馬の養子坂本直の妻 留(とめ)は、夫が死去したことに伴って、高知から浦臼の坂本直寛のもとに移住してきました。
空知管内浦臼町には「坂本龍馬家の墓」(1917年建立)があるのはこのような経緯です。「坂本直寛屋敷跡」も浦臼町内にあります。

坂本直寛の孫にあたる山岳画家の坂本直行(1906-1982)は、釧路で生まれ坂本家8代目当主になります。北大農学部入学後、1936年から十勝管内広尾町に入植し、十勝の大自然を描いてきました。十勝管内中札内村に「坂本直行記念館」がありますが、帯広銘菓「六花亭」の包装紙は坂本直行の作品です。

龍馬の肖像画

龍馬を描いた絵があります。
明治37年に坂本留(龍馬の養子である直の妻)が、現在の浦臼小学校で「坂本龍馬遺品展」を開催する時に、画家林竹次郎に依頼して描いたものです。留は、龍馬の顔の色艶などを細かく説明し、数ある肖像画の中でも本人に良く似ていると言われています。
この遺品展で、龍馬の愛刀・血染めの掛け軸・喪服など数多く並べられました。しかし、坂本7代目弥太郎が釧路で木材輸入業を経営した際、大火で家が燃え、龍馬のピストルなどの遺品一部が焼失しました。残された遺品は、その後京都国立博物館に寄贈されました。
司馬遼太郎とは違った龍馬小説ができるでしょうね。