村上伝兵衛(三代目)(むらかみでんべえ)

1738年(元文3年)―1813年(文化10年) 享年64歳。 長者番付の東の横綱  

石狩川は、大雪山系の石狩岳にその源を発し、層雲峡の渓谷を流下して上川盆地に至り、道北の拠点都市旭川市で忠別川、美瑛川等の支川を合わせ、神居古潭の狭窄部を下って石狩平野に入ります。
石狩平野に入ると雨竜川、空知川、幾春別川、夕張川、千歳川等の支川を集め、最後に札幌市の中心部を流れる豊平川を合わせ、石狩湾で日本海に注ぐ流域面積が全国第2位、幹川流路延長268km(全国第3位)の1級河川です。
流域は、195万人都市札幌市や第二都市34万人の旭川市をはじめ46市町村からなり、河口は石狩市となります。いしかり市名はアイヌ語のイ・シカラ・ペッ(回流・曲がりくねった)と石狩川が由来です。
石狩川は社会、経済、文化の基盤をなしており、重要な食料供給地にもなっています。これは蝦夷の時代も同じことで、サケがのぼる千歳川・豊平川を制する者が巨万の富を得ていました。アイヌ民族一大勢力の拠点は石狩川の中央部現在の浦臼町にシャチを構えていました。
石狩川が日本海に注ぐ河口の石狩市弁天町には、村山家が1816年に再興した「石狩弁天社」が今も保存されています。


石狩弁天社

石狩弁天社

蝦夷の時代、松前藩が石狩場所を設置したのが始まりで、1706年に能登の村山伝兵衛(初代)が請負したのがはじまりでした。現在も石狩河口にある弁天町には石狩弁天社が残されています。明治時代まで、この石狩河口は蝦夷の鮭漁獲量の約半分を占めており、石狩13場所の元場所として栄えていました。
この一帯は現在公園として整備され、施設も作られて当時の状況が分かるように再現されています。

また地元のボランティアの人が歴史の案内もしてくれます。

石狩灯台 喜びも悲しみも幾年月のロケ地

夏になると石狩浜海水浴場が開かれるので多くの方が訪れる所です。今は勢いがありませんが石狩温泉番屋の湯もあります。更に河口を下ると石狩灯台があり、1957年「喜びも悲しみも幾年月」のロケが行われたところもあります。北海道郷土料理としておなじみの石狩鍋は、ここが発祥の地となり、いまでも「石狩鍋」を食べさせてくれるお店があります。

 初代村山伝兵衛
 村山伝兵衛とは、1683(天和3)年から明治期の七代目まで続いた商人で、「伝兵衛」は歌舞伎役者のように当主より襲名されていました。初代伝兵衛は、能登国から渡り松前藩士の家に身を寄せ、藩士船頭を務める古屋家の娘に義母になってもらい一戸を構えました。当時はこうでもしなければ蝦夷地で働くことが出来ませんでした。廻漕業を営み「丸に十五」を店印にして26、7隻の船を持ち、宗谷、留萌の二場所を請け負うほどになりました。二代目は越前国敦賀の島崎理兵衛で、松前の商家にいたのを初代が見込み養子に迎えいれました。この二代目の長男が後の三代目となる直舊(なおとも)でした。

三代目伝兵衛

現在の石狩川河口

伝兵衛の名が後世に残るのは三代目「伝兵衛」が飛びぬけて優秀であったからです。1738(元文3)年、松前郡福山町(現・松前郡松前町福山)に生まれます。幼名は市太郎後に直舊。1757(宝暦7)年松前で基礎を固めた祖父の死後に、二代目が村山を離れ大阪に移ると、市太郎は22歳で事業を受け継 ぎ三代目となりました。
藩吏や幕吏たちの信用を高め、問屋株を手に入れます。問屋株とは松前に出入りする船から、問屋口銭を取ることを許され、多額の収入を得、松前きっての豪商となります。漁法を改良し漁場を開き、海産の販路を開いていきます。
1773(安永2)年、松前藩より樺太(サハリン)の調査を命ぜられ、持ち船2艘にて松前藩士と共に漁場調査行い、漁場を開きます。1775(安永4)年、宗谷(ソウヤ)場所を飛騨屋久兵衛が請負ったことを知ると、内々で譲り受け下請負人になり8年間鰊・鮭・鱒などの漁業を行い、斜里に漁場を新設します。1778(安永7)年、松前藩から増毛場所を請負います。1782(天明2)年、この頃3代目伝兵衛は苗字帯刀を許され、町年寄と町奉行下代役を兼任。そうして、長崎俵物買付総取締役となりました。

1789(寛政元)年5月、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引と労働環境に不満を持ったクナシリ場所のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起しクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が勃発します。1791(寛政3)年、蜂起の中心となったアイヌは処刑され、事件の後、蜂起の原因を作った飛騨屋久兵衛は責任を問われ場所請負人を罷免されました。

790(寛政2)年、斜里と樺太のアイヌの撫育を命ぜられ、この年を斜里場所開設の年とし、松前藩の命により村山伝兵衛が請負った。各場所には、自己の船舶を以て、多量の米塩其他の諸貨物を送り、各種漁網を備えて漁法を伝習し、新たに数十箇所の漁場を開きます。このときの斜里場所の支配範囲は、現在の斜里郡、網走郡、常呂郡、紋別郡に亘るものでした。
最盛期を迎えており、東蝦夷地11ヶ所、西蝦夷地7ヶ所、藩が直接交易をしていた場所も請負い計35ヶ所。福山に倉庫数十棟、持ち船は120隻を有するまでになり日本でも有数の資産家に数えられました。この年樺太の場所経営も着手します。
松前藩に収めた運上金(税金)は一年に2500両で、米にすると1万石、松前藩が公称1万口でしたから大名並で、長者番付に「西の横綱は鴻池善右衛門、東の横綱は村山伝兵衛」とうたわれました。

1792(寛政4)年6月松前地方を襲った大時化のため、荷物を乗せたままの船20隻以上もの船が沈没し大損害を被りました。
1796(寛政8)年4月交易の利権を巡る争いに巻き込まれ、藩命を下され「御叱之上慎(謹慎処分)」を命じられ宗谷・斜里・樺太の三場所を伝兵衛から奪いとり、さらに問屋株や藩船も取り上げられ、役職も降ろされ、松前藩は村山の財産を奪い取りました。
松前藩は場所を各商人に任せていましたが経営は破たん。これにより松前藩政は大混乱と打撃を受けます。
1798(寛政10)年松前藩は、伝兵衛に家と倉庫を返還。1799(寛政11)年村山伝兵衛は再び蝦夷地御用掛の官用取扱方に命じられます。これまで築いてきた村山家の場所経営の幅広い人脈やノウハウなしに蝦夷地経営は難しかったのです。
復権したものの、年には敵わず隠居し、家督を譲ることとなり、4年後、1813年(文化10年) 64歳で亡くなりました。