松前崇広(まつまえ たかひろ)
1829年(文政12年)―
1866年(慶応2年)4月25日没
 
享年38歳。

江戸時代後期の大名。蝦夷松前藩第12代藩主。老中になった人物です。

 

松前藩主は14代松前修広で維新を迎えます。
戊辰戦争後新政府から3万石の藩知事となりますが廃藩置県で免職となり、子爵となりますが明治24年、伯爵になることを願うものの許可されず明治38年41歳で死去しました。
歴代の松前藩主は病弱、また幼少のため家老である蛎崎家が政ごとを仕切ることが多かったようです。これはどこの藩も同じ事情があります。

しかし、14人の藩主の中でやり手の藩主は二人おります。一人は松前藩の初代松前慶広、こちらは既に取り上げました。もう一人が今回取り上げる松前崇広です。

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松前の孟宗竹 油絵 F4 キャンバス 横333×縦242
2016制作

日本最北の城下町のお城は松前崇広の時に建設されたもので、それまではお城ではなく舘でした。
また、桜は松前の代名詞でもありますが「松前の桜」は明治に入って29歳の男が接ぎ木を続けて育てたものです。松前藩主は桜ではなく、北海道では珍しい孟宗竹を佐渡から取り寄せて楽しんでいました。
その竹林はお城の中ではなく、今は民家の外れとなった場所に残っています。

噴火湾の名付け親はブロートン船長<イギリス人>

室蘭から森町をお椀の淵と考えれば、豊浦町の礼文華峠あたりがお椀の底に当たります。
この太平洋の内浦湾を「噴火湾」を呼ばれていますが、誰が名付けたのかを知る人は少ないでしょう。

寛政8年(1796)にイギリス海軍の探検船が絵鞆(室蘭)に来航しました。ブロートン船長が率いるプロビデンス号で、ろうそくの原料となるクジラの捕鯨や金・銀の探検のためでした。翌年にも来航し、アイヌの人たちとも交流し、港内の測量を行います。
船長は、著書「北太平洋探検の航海」で、北海道に「エンデルモ(エトモ)・ハーバー」という天然の良港あり、有珠山や駒ヶ岳などの火山群を見て、この湾を「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾)と名付け、1804年に初めて世界に紹介しました。

松前崇広の時代<対外問題は蝦夷地だけではなくなります>

文政元年(1818年)イギリス人が通商を求めて浦賀に来航。同5年~8年と相次いでイギリス船の来航があり文政8年には「無二念打払令」が発行され、更に11年には「シーボルト事件」がおきます。

文政6年(1824)外国船が幌泉(襟裳)上陸。8年には勇払(苫小牧)沖に外国船出現、天保2年(1831)外国船が霧多布に上陸、厚岸勤番の松前藩兵と交戦。

同7月には内浦湾の有珠場所で松前藩兵と交戦。翌天保3年には椴法華沖、5年には津軽海峡、様似沖にも出没。天保14年、ロシア船が漂流民を択捉島に送還。この漂民は天保9年松前行きの途中仙台沖からハワイに流され、米国船・英国船でペトロハウロスクに送られロシア船で送還されたものです。

幕府は天保14年に無二念打払令を緩和し、薪水給与令に替えました。
そうして、天保15年、フランス船が厚岸のバラサン沖にあらわれ、薪水・食料の給与を受けます。
弘化元年(1844)、外国船が室蘭の絵鞆や厚岸にきましたがトラブルなく退散しています。

生い立ち

文政2年(1829年)、9代藩主・松前章広の六男として福山城にて誕生。
幼少期は武術、とくに馬術を得意とし、また藩内外の学識経験者を招聘して蘭学、英語、兵学を学び、さらには西洋事情、西洋の文物に強い関心を抱き、電気機器、写真、理化学に関する器械を使用するなど、西洋通でもありました。

松前藩は外様小藩主でありながら、幕府寺社奉行・海陸軍総裁・老中格・老中になり、最後に朝廷攘夷派に忌まれて罷免蟄居させられた人物です。
崇広の甥で第11代藩主・松前昌広が病床にあり、昌広の嫡男徳広もまだ幼少であったので、嘉永2年(1849年)6月9日、昌広の隠居によりその養子として家督を相続し20歳で第12代藩主となりました。

崇広は早速、家督相続挨拶のために江戸に出府し、第12代徳川家慶に御目見すると、北方警備強化のため、新たに城を築城するよう命じられました。
江戸も末期の時代は海防問題もあって、嘉永2年(1849)、異例の福山築城でした。松前氏は館主ではなく、ここで城持大名になったわけです。城構築が禁止されていた徳川体制の慣例をやぶってのことでした。これにより陣屋住まいから城主となります。松前城と呼ばれ天守閣持ちの城として江戸時代最後の城となりました。

城を造るにあたり高崎藩の兵学者市川一学に委託します。
一学は福山(松前)の地が城地として不適当なことを進言しますが、松前藩人は福山を希望し、旧館を壊して6年がかりで新城が完成しました。
後年、箱館戦争でうき目をみますが、城域は23,578坪、本丸二の丸・三の丸にわけ、城門16、城楼6、砲台7座をそなえ、柵を二重にしたものでした。ついで、箱館弁天台場・山背泊・押付の三台場も築造し、崇広は様式大砲の建造なども実施したといいます。
ところが、城が完成した翌年の安政元年(1854)3月、幕府はアメリカ合衆国提督ペリーの圧力に服し日米和親条約を締結しました。
                               
老中就任

12代藩主松前崇広(たかひろ)は、松前藩主として初めて幕府幹部に登用。

西洋通であったため、文久3年(1863年)4月23日に寺社奉行に起用されます。
更に、元治元年(1864年)7月7日老中格兼陸海軍総奉行になり、同年11月10日老中に抜擢されました。(明治まで後4年のころです)

慶応元年(1865年)5月には第二次長州征討に徳川14代家茂の供をして京都、ついで大坂に至り、9月には陸軍兼海軍総裁となりました。
幕府は英・米・仏・蘭の4ヶ国と兵庫開港、大坂の市場開放を内容とする条約を締結しました。ところが、朝廷からは勅許が得られず、条約内容が履行されない事態が起きます。4ヶ国は軍艦を率いて兵庫に進出、兵庫開港を要求となりました。この事態を受けて、老中の阿部正外松前崇広は独断で兵庫開港を決定しました。

このため10月1日に朝廷は正外と崇広に対して官位の剥奪、謹慎を命ずる勅命を下します。将軍・家茂はやむなく正外・崇広両閣老を免職し、国許謹慎を命じました。
崇広は慶応2年(1866年)1月に松前に帰還しましたが、同年4月25日、熱病により松前で死去。享年38でした。

跡を養子の徳広が継ぎました。