大川春義 (おおかわ はるよし)
1909年(明治42年)―1985年(昭和60年) 享年76歳。

苫前村三毛別出身の猟師(マタギ) 
熊打ち名人 生涯102頭

 

義が6歳の時、苫前村三毛別で獣害史最大の惨劇といわれる「三毛別羆事件」が起きました。
1915年(大正4年)12月9日から10日のわずか2日間で、1頭の羆に7人もの人命が奪われました。事件発生から3日後の12月12日、対策本部が当時三毛別村長だった春義の父大川与三吉宅に置かれました。義は自宅に集まった大人たちから悲惨な事件のあらましを聞き、幼心に羆への怒り、憎しみを抱きました。
羆はその2日後の12月14日に山本兵吉の手で討ち取られましたが、義の怒りは消えず「殺された人ひとりにつき、10頭の羆を仕留めてやる」 犠牲者の霊前で熊打ちになることを誓いました。

明治33年、最後の屯田兵が士別・剣淵に入地し、鉄路が伸びるに従い北海道の開拓環境は激変してきました。明治後期から大正にかけて盛んに推奨されたのが内陸部開拓です。国の拓殖政策を背景に、大量の国有林が伐採され北海道の耕地面積は増加。北海道の人口は30万人台から一気に200万人と膨張していきます。
最後の屯田兵である士別から西に向かうと日本海に面して苫前町があります。この町の市街から18キロほど山の中に三毛別(現在の三渓地区)がありました。

三毛別熊事件のはじまりは次のような羆の出現でした。
『羆は農家の裏手に干してあったトウモロコシを食い漁りました。この時、家には母親と6歳の子供がいましたが、羆は子供を殴って即死させ、さらに逃げた母親を襲い、その遺体を引きずって裏山に立ち去りました』  これが幕開けで、事件は内陸部開発のさなかで、明治末期から15戸の家族が新天地を求めて入植してきたのが三毛別だったのです。

少年時代 (下記の写真は三毛別事件の羆です)
小学校を卒業すると春義は、父の農作業を手伝っていました。父は村長でもあったので、アイヌの猟師が米を買いに立ち寄ることが多く、猟師たちは米を持って山に入り、一週間ほどで山から下りて来ると射止めた熊の毛皮や時には子熊を抱かえていることもありました。春義は、猟師たちから羆のことをいろいろと聞きました。羆の射止め方なども教わりました。これが何よりの楽しみの少年時代でした。三毛別羆事件の羆を仕留めた山本兵吉もアイヌ猟師から指導を受けていました。

徴兵年齢でもある20歳になると猟銃所持が許可されます。
父は貯めた50円の大金で世界最新鋭であった村田銃を購入し春義に渡しました。春義は裏山で射撃の練習をはじめました。アイヌの猟師に指導を受け、一撃で仕留められなかった時のことも想定して、指の間に弾丸をはさみ、素早く装填して、第二弾、第三弾を発射できるコツも伝授され難しいとされる連射もできるようになりました。銃を手にした翌年の秋、念願の猟師として、いよいよ羆狩りを目指して山に入ります。
初めて100mほど前方に羆が歩いているのを発見しました。しかし、実際に羆を目撃すると恐れをなし撃つことができません。その後も何度も羆を発見しますが、足がすくみ、そのまま引き返すばかりでした。こうして羆を前にして銃を放つことのできない日々が、実に10年続きました。

11年目の昭和16年。32歳となった年に、山中で子連れの羆を見つけました。
恐怖と自尊心の間で揺れ動きながらも、奮い立たせ羆を追いました。アイヌの猟師の教えを思い出しました。「子連れの場合は、子どもを先に撃つと怒り狂った親に狙われるので親から倒せ」一発目は外れたものの、二弾目が胸に命中しました。ついに念願の羆を倒したのです。

父を始め地元住民たちの喝采を受けました。これがわずかな自信となり、翌年の昭和17年には4頭、昭和18年には3頭の羆を仕留めました。羆の胆嚢と毛皮は高価な売り物になりますが、仇討ちだけが目的の大川はそれらに興味を示さず、住民たちに無償で配布しました。

第二次世界大戦中の昭和19年、召集により戦地に赴きました。戦地でも羆狩りで鍛えた抜群の射撃能力で活躍。100メートル先の動く標的にも銃弾を連続して命中させ、人々を驚かせます。

昭和21年に復員。父はすでに死去しており、父に報いるためにも打倒羆70頭の誓いを新たにし、昭和22年から狩猟を再開しました。ほかの猟師と協力して羆を仕留めたこともありますが、ほとんどの場合は1人で狩猟を行ないました。
戦場で培った度胸もあり、毎年1頭から4頭、多いときでは年に7頭を仕留め、昭和44年には50頭を達成。この頃に周囲の勧めで、5連発のライフル銃を購入。新たな銃の性能も手伝い、間もなく念願の70頭を達成。地元では祝賀会が開催されました。しかし依然として北海道内では、羆による被害が続いていました。周囲の要請もあり、大川は新たに100頭の目標を立てます。
すでに60歳を過ぎており、山に入ることでの疲労が増し、銃の重量にも負担を感じ始める年齢でしたが、昭和52年、ついに100頭を達成しました。このうち大川が単独で仕留めたものは76頭を占めていました。

引退・死・没後

念願の100頭を達成後、大川は銃を置き、猟師を引退します。その後、事件の犠牲者たちの慰霊碑の建立を計画。思いを同じにする地元住民たちの協力のもと、地元の三渓神社に「熊害慰霊碑」が建立されました。碑には大きく「施主大川春義」と刻まれます。
1985年12月9日、三毛別羆事件の70回忌の法要が行なわれました。大川は町立三渓小学校(のちに廃校)の講演の壇上に立ち、「えー、みなさん……」と話し始めると同時に倒れ、同日に死去します。
大川は飲酒も喫煙もせず、健康そのもののはずでした。その大川が事件の仇討ちとして羆を狩り続けた末、事件同日に急死したことに、周囲の人々は因縁を感じずにはいられなかったといます。
山中で羆を狙う様子は、非常に禁欲的かつ厳格でした。持参する食料は、梅干しのおにぎりと水だけで、雪の中で歩くときは、笹に積もった雪が地面に落ちる音に合わせて、足を動かし、匂いを感づかれることのないよう、たばこを吸うこともありませんでした。「山に入ったら、クマの悪口は一切言ってはならない」と、口癖のように語っており、晩年には子グマを庇う母グマの仕留めを躊躇することもあったといいます。犠牲者たちの仇だけを考えて羆狩りを続けたものの、100頭を達成した後には、本当に悪いのは羆ではなく、その住処を荒らした自分たち人間の方ではないかと考えたともいいます。北海道内でのヒグマによる被害は、明治37年から三毛別羆事件発生までの10年の間に、死者46名、負傷者101名、牛馬2600頭に及んでいます。しかし大川が猟師となってから約20年間の被害はその3分の1まで減少しており、このことからも大川の功績は高く評価されています。