福山城(現在の松前城)が完成した安政元年(1854)3月、幕府はアメリカ合衆国提督ペリーの圧力に服し、日米和親条約を締結しました。この条約で伊豆の下田と、箱館を開港することになります。
ペリーの艦隊は、早速4月に箱館港調査に来航します。

松前藩および住民にとっては驚きと恐怖で大騒ぎとなりました。
松前藩は、箱館警備に派兵するとともに、箱館住民にたいして、アメリカ人来航のさいの「心得書」を配布しました。

それには、見物の禁止、海に面した戸障子の目張り、酒をかくすこと、仏事などの禁止、婦人・子どもを山手へ疎開させること、アメリカ人が日用品を求めてきたときのとるべき処置など、こまごまと注意を与えました。
住民は荷物を車に積んで、近くの村に疎開するなど、大騒ぎであったと当時の記録が残っています。

箱館開港で最新の情報地に

日本人の中でも蝦夷は、社会・文化のおくれた辺境の島としてしか認識されていませんでした。

古くからオランダ・清国と交流していた長崎をのぞけば、下田と箱館は一夜にして近代文明と接触する、日本でただ二つの関門になったのです。下田はまもなく開港場ではなくなりますが、箱館はその後も長く日本の関門の位置を保ちました。

箱館は開港をきっかけに最先進地帯に転換したのです。

安政2年(1855)に箱館は正式に開港されますが、条約では、薪水・食糧を供給するが燃料の石炭供給の義務はありませんでした。
ところが、外国船の要請で、翌3年釧路のオソツナイで石炭を採掘、4年からは白糠のシリエト(石炭岬)で採掘をはじめ、万延元年(1860)には罪人を集めて寄場を設けます。
しかし、箱館へ輸送する途中に品質が悪化するため、7年後(1867)には岩内(現在の泊村)の茅沼炭山採掘に切り替えました。
泊村に原子力発電所がありますが、村のパンフレットに「泊村はエネルギー発祥の地」という名文句はここから生まれています。

写真は元町公園の下に位置する旧市立函館病院跡に建つペリー提督来航記念碑