松前藩主の幼君が続きましたが、武芸に優れ英邁な藩主が登場します。
現在の松前城は12代藩主崇広の時代に作られた城です。

松前崇広(たかひろ)

文政2年(1829年)、9代藩主・松前章広の六男として福山城にて誕生。
外様小藩主でありながら、幕府寺社奉行・海陸軍総裁・老中格・老中になり、最後に朝廷攘夷派に忌まれて罷免蟄居させられた人物です。

崇広の時代は海防問題もあって、嘉永2年(1849)、異例の福山築城を命じられます。松前氏は館主ではなく、ここで城持大名になったわけですが、城構築が禁止されていた国内体制の慣例をやぶって命じられました。
高崎藩の兵学者市川一学に築城を委託。一学は福山(松前)の地が城地として不適当なことを進言するが、松前藩人は福山を希望し、旧城を壊して6年がかりで新城が完成。

後年箱館戦争で、国内戦でうき目をみましたが、城域は23,578坪、本丸二の丸・三の丸にわけ、城門16、城楼6、砲台7座をそなえ、柵を二重にしたものでした。
ついで、箱館弁天台場・山背泊・押付の三台場を築造。また、崇広は様式大砲の建造なども実施したといいます。

ところが、福山城が完成した安政元年(1854)3月、幕府はアメリカ合衆国提督ペリーの圧力に服し、日米和親条約を締結しました。