松前藩は3万石の大名

時は徳川14代将軍家茂の時代で、明治維新まで後14年です。

安政元年(1854)、幕府は箱館開港を決定すると箱館近辺を松前藩領地から取り上げ、広大な東西蝦夷地の警備を考えて箱館奉行所を設置し竹内保徳・堀利煕を任命します。

翌年、東は木古内以東、西は乙部村以北の全蝦夷地を直轄し、箱館奉行所が支配することになりました。
松前藩の領地は道南の一部にいちじるしく縮小されましたが、かわりに奥州梁川(やながわ)、出羽村山郡東根の地合わせて3万石を与えられ、ほかに出羽村山郡尾花沢1万350万石を預所に、さらに手当金年1万8000両を支給されることになったので、松前藩は実質3万石の大名に昇格したのです。

松前藩12第藩主松前崇広(たかひろ)は西蝦夷地旧領の一部の返却を嘆願しましたが受け入れられず、後に崇広が海陸軍総奉行に就任したとき、乙部から熊石の8ヵ村が返されました。

幕末の箱館は外国人の溜まり場

東西蝦夷地および樺太警備については、松前藩のほか仙台・南部・津軽・秋田の4藩に分担させて警備体制をとります。
さらに、安政6年(1860)、会津・庄内を加えて6藩に分領、警備の分担をきめました。

安政3年(1857)、アメリカの貿易参事官ライスが箱館に赴任、つづいて同5年ロシア領事、同6年イギリス領事が着任します。オランダ・フランス・プロシア(北東ヨーロッパ)もつづきました。

安政6年(1860)6月、箱館は正式に貿易港になり、文久3年(1863)までの6年間に、商船148隻、軍艦99隻、猟船60隻が入港しました。
商船はイギリスとアメリカが群を抜いて多く、そのほとんどは蝦夷地産物を中国(清)に運ぶものでした。これは、イリコや特に昆布が多く輸出が大部分で、輸入はせいぜい外人居留民の必需品できわめて少額でした。
これらは、箱館奉行のもとでおこなわれた貿易です。この時の箱館奉行所は函館山の基坂を上がったところにありました。

写真は函館山中腹にあった「箱館奉行所跡」です。後に、箱館奉行所は五稜郭内に移されました。