文化8年(1811)ロシア船は国後沖に姿をみせました。
ゴローニン少佐を艦長とするジアナ号でした。
蝦夷地は幕府の厳戒体制を敷いており、しらずに国後に上陸したゴローニンら8人は、たちまち捕らえられました。艦上でこれを見た副長リコルドは、いま戦っても勝ち目はないと判断、艦長を残したまま、ジアナ号はいったんオホーツクへ引き返しました。

ゴローニンは福山(松前)に送られて取り調べを受けます。
先年のフォストフの暴行略奪はロシフ政府の命令によるものか、ゴローニンの来航はこれと関係があるのか、この二つのが中心でした。
ゴローニンは、フォストフの暴行はロシア政府とはまったく関係のない個人の私意であることを弁明し、松前奉行もこれを了承しました。
松前奉行所はゴローニン放還を申請しますが幕府は強硬でした。放還は許さず、近づくロシア船はみな打ち払えというのです。失望したゴローニンらは、脱走をくわだてますが失敗に終わりました。

ジアナ号は、翌9年8月、漂流民や先年フォストフに捕らえられた五郎治らを伴い、ふたたび国後に来航しますが、ゴローニンの消息は要領を得ませんでした。

たまたまそこへ、択捉場所から水産物を積んだ高田屋嘉兵衛の観世丸が現れました。
リコルドは停船を命じ、嘉兵衛の話を聞いた上、嘉兵衛を伴ってカムチャッカに寄港しました。この時の嘉兵衛の態度は豪胆沈着、ロシア人がみな敬意を表したといいます。