いよいよ高田屋嘉兵衛の登場です。司馬遼太郎は、「幕末の中で世界に恥じない日本人は彼をおいていない」と評価し、壮大に描いた長編小説「菜の花の沖」を書いています。シリーズで紹介したいと思います。

 北海道の玄関口にあたる函館は早くから開けた街です。もとは箱館の字を用いていました。箱館港が松前藩の交易港になったのは享保20年(1735)であり、徳川幕府により蝦夷奉行が置かれたのは享和2年(1802)でした。函館となったのは、安政元年(1854)に伊豆の下田とともに日本最初の開港地となったときです。

そうしたあゆみのなかで、一代の豪商高田屋嘉兵衛は函館を開いた恩人でもあります。昭和31年嘉兵衛が没して130年ということで、銅像建立の機運が盛り上がり、函館開港100年(昭和33年)を記念して実現します。函館出身の彫刻家で挿絵画家でもあった梁川剛一氏に製作を依頼し、かつて嘉兵衛の屋敷があった(現在の銀座通りグリーンベルトの一角)宝来町、護国神社坂入口に建立されました。

約8メートルの台座の上に等身2倍大の嘉兵衛が港を見下ろしています。
毎年7月下旬には高田屋嘉兵衛まつりが行われます。銅像前の電車通りを渡ると高田屋屋敷跡があります。ここから港の赤レンガ倉庫群までの通りを銀座通りと呼んでいますが、もとは運河だったところで高田屋の敷地内でした。
昭和61年に運河が切れる港近くの末広町に「高田屋嘉兵衛資料館」、63年には更に300mほど離れたところに「北方歴史資料館」(通称高田屋子文書館)。
大町には高田屋本店跡の石標柱、高田屋家墓地と嘉兵衛顕彰碑は「称名寺」に、高田屋嘉兵衛造船所跡地標と遺跡が多くあります。

白御影石の台座の上に立つ銅像は、ゴローニン事件で幕府の代理人としてロシア軍艦「ジャーナ」へ乗り込んだ時を再現し、正装の仙台平の袴、白足袋、麻裏草履を履き、帯刀した姿。右手には松前奉行からの論書(さとしがき)、左手には艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣類を持っている姿です。
資料館には複製があるので、目の前で顔の表情も良くみることができます。