2020年8月28日に安倍晋三総理の辞職が決まりました。
安倍政権とプーチンによる北方四島問題が、経済特区として進もうという話もありましたが、またまた元の木阿弥となりました。

ロシアとの国境問題が初めて具体的になったのは、実は18世紀末のことでした。

道東の別海・厚岸~根室を旅すると、三人の歴史的人物に出会います。
それは最上徳内・近藤重蔵・高田屋嘉平です。
蝦夷地を最初に探検に入った日本人は最上徳内でした。
択捉島の面積は島根県ほどありますが、高田屋嘉兵衛の功績は国後から択捉に航路の道を作ったことです。そのために海産物取引で莫大な資産を築き上げます。
1800年前後の北海道(蝦夷)は各地域で大きな動きがたくさんありました。
この「蝦夷の時代」は少し戻ります。

1798年、エトロフ(択捉島)に渡った幕府支配勘定の近藤重蔵一行は、7月28日、択捉島南端タンネモイ(丹根萌)近傍のリコツフ(またはリコップと表音)に「大日本恵登呂府」の標柱を立てました。
これが択捉島で初めて行われた日本による領土宣言で、今につながる北方四島のはじまりです。
近藤重蔵は国後島から択捉島へは、潮の流れが激しい海峡を渡らなければならず、案内のアイヌを説得し、やっとのことで渡ります。択捉には2泊しただけで、標柱を立てることだけが目的でした。

この時、国後島に滞在していた8月17日に、択捉島からアイヌが渡ってきます。そこで、彼らに「大日本恵登呂府江戸近藤重蔵」と書いた標柱を渡し、択捉島からウルップへの渡り口に立てるように指示しました。ウルップ島は択捉島の更に北になります。択捉島は島根県ほどの面積があるので、近藤は自分が立てた「大日本恵登呂府」は南部であったため、北部にも立てたかったのでしょう。
しかし、これが実際に立てられたかどうかの記録は残っていません。

近藤重蔵が択捉島に立てた標柱は、幕府による蝦夷地調査の一環でした。
この調査により、幕府はロシアの南下を目のあたりにし、異国との国境の地を、松前藩に任せられないと判断します。
翌年の1799年、択捉島までの東蝦夷地を幕府の直轄地としました。

1799年(寛政11年)、高田屋嘉兵衛が厚岸に滞在中、近藤重蔵に依頼され国後島と択捉島間の航路を開拓することになりました。
国後(クナシリ)・択捉(エトロフ)間は激浪渦巻く魔の海域だったのです。高田屋は択捉島と海峡が見える国後島の山頂に上り20日間海峡を観察しました。そうして、3つの潮流が流れていることを発見し安全な航路を発見したのです。

翌年の1800年(寛政12年)に高田屋嘉兵衛は、兵庫や大坂で大工らを雇い入れるとともに、米、塩、鍋や釜などの物資を調達し、辰悦丸と4艘の船で択捉島に渡たり、択捉島では17か所の漁場を開き、アイヌに漁法を教えました。

1801年(享和元年)、択捉航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許されました。
1806年(文化3年)には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、嘉兵衛は漁場を次々開拓、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇することとなります。