1799年(寛政11年)、幕府は近藤重蔵を「エトロフ島掛」を命じます。
高田屋嘉兵衛が開拓した航路を利用して、1800年に択捉島に渡り、幕府の出先機関である会所を置き、島内のアイヌの戸籍を調べて人別帳を作成。三年間島に滞在しました。
ロシア勢力の南限と接する択捉島については、幕府は日本領にしようと目論んでいたので強引でした。

「ロシアから日本を守るため、アイヌ民族の確保」というのは、日露戦争の時に「ロシアから日本を守るため、朝鮮を確保しよう」、更に太平洋戦争で「ソ連から日本を守るため、満州を確保しよう」と、つながります。

近藤重蔵が考えた対ロシア政策は、現地のアイヌがロシア人の支配に組み込まれないよう、択捉島のアイヌを手厚く保護することを柱に、アイヌに幕府の威光を示すことでした。最終的に日本人化することを目指します。
そのため、「下され物」と称して、ことあるごとにアイヌに酒・タバコ・コメなどを与え、病気の者には薬まで用意したのです。

「シャム振り」と称して日本人風の名前に改名した者、あるいは髪型や服装などを日本人風に改めた者には褒美を与えました。更に、こうした日本人化を積極的に行った者は「乙名(おとめ)=村の首長」に任命し、本州の村役人と同様の地位を与えました。
戸籍調査を行い択捉に暮らす1118人を7郷25村に分け戸籍を記録し、首長を和名にし和服を着ることを奨励したのです。

重蔵が実施したこれらの政策は、国境の地である択捉島を軍事的な防衛策に頼らず、居住するアイヌを日本人化することで、ロシアの南下から日本を守ることを意図したものでした。
同時にこの政策は、それまで松前藩が行ってきたアイヌが日本人と同じ風俗になることを認めない政策から、大きく方向転換を図るものでした。
ただし、この日本人化政策は一時的には成功しますが、その後、大部分のアイヌは名前も風俗も元に戻してしまいます。