蝦夷三官寺

1804年(文化元年)に、江戸幕府が蝦夷教化や北辺警備等を目的に建立した直轄の官寺が今も残っています。檀家のいない、幕府より提供されるコメや資金などで運営する官寺でした。

伊達市有珠にある有珠善光寺(浄土宗)、厚岸町の国泰寺(臨済宗)、日高様似町の(天台宗)で「蝦夷三官寺」といわれます。松前から根室に向かう太平洋の入江に面して建てられています。

幕府は蝦夷地に派遣団を送り込み、最上徳内や近藤重蔵らが南千島に渡ってみると、アイヌにキリスト教が浸透していることを知ります。
1799年(寛政11年)に東蝦夷を直轄地にした幕府は、アイヌに対して3か条の施政方針を示しましたが、その第1条は「外国人に親しみ、邪宗門(キリスト教)を信ずるもの極刑にする」とあります。
ロシア人の南下対策、アイヌの国民化対策が必要でした。さらに、当時は蝦夷地に出かせぎに来て、死んだ人々を弔う寺も、僧もいなかったという事情もありました。

お寺を建てる事を禁じられていた時代で、開拓使(明治2年)が置かれる60年以上前に築かれた建物がその姿をとどめているわけですから、歴史のない北海道で、この三寺には特異な空間を感じます。

善光寺
有珠の善光寺は、国道37号で伊達市街を過ぎて20分ほどのところにあります。(旧37号線に入ります)
826年(天長3年)、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開基したと伝えられる浄土宗のお寺です。伽藍が構成されたのが、1804年(文化元年)となっていますが、1613年(慶長18年)に松前藩初代藩主が祈願所として小堂を建立したとの言い伝えもあります。

東京芝増上寺の末寺として指定され、1822年(文政4年)の有珠山大噴火で貴重な宝物や資料を失ったものの、江戸時代のたたずまいを今に伝える貴重な建物は残り、1974年(昭和49年)には国の史跡に指定されています。

現在でも、江戸時代に棟造、増築された茅葺屋根が特徴の本堂・客殿が拝観できます。境内は広く、有珠山爆発で飛んできた岩がいたるところにあり、岩の裂け目から満開になる桜を見に訪れる観光コースにもなっています。

夏には地元の人たちで出店が並び、有珠名物 善光寺鰐口(わにぐち)最中を売っています。

院(とうじゅいん)
日高の様似市街にありますが、寺は何度か移動しているので地元の人に聞かなければわかりません。
蝦夷の様似には、多くのアイヌが暮らしていましたが、江戸時代には、すでに砂金採取のために多くの和人も移り住んでいました。ゴールドラッシュで賑わう交易の中心地でした。

明治維新後に、寺領手当てなどが支給停止になり、一時、廃寺の悲運にあいましたが、1987年(明治30年)に再興され、その後、何回か移転を繰り返した後、1965年(昭和40年)に現在地に移転保存されました。
そのため、建立当時の面影を残すものはわずかに護摩堂(1807年-文化4年建立)だけですが、本堂には鎌倉時代(推定)に作られた聖観世音菩薩像や薬師如来三尊仏像(江戸後期・推定)など、様似町指定文化財の貴重な仏像がまつられているほか、2005年には歴代の住職記などの古文書(様似郷土館所蔵)と百万遍念珠箱が国の重要文化財に指定されています。

国泰寺(こくたいじ)
国道44号の道の駅「厚岸グルメパーク」を過ぎて、赤い橋を渡り道道123号に沿って行くと案内があります。
厚岸町は寛永年間に松前藩がアッケシ場所を開設し、同20年にはオランダ船が漂着したと伝えられる道東文化の発祥地です。国泰寺は江戸時代後期にロシアの南下・場所請負制度の弊害など北辺の危機が叫ばれる中で、1804年(文化元年)に設置が決定され、厚岸湾に突出するバラサン岬に創建されました。

寺には、外門や内門、東面する本堂、観音石仏、仏舎利塔、竜王殿、馬頭観音堂、最上徳内建立の神明社跡(のちの現:厚岸神社で国泰寺に隣接)などがあります。
このお寺は鎌倉の金地院の末寺になりますが、その活動範囲は「十勝、釧路、厚岸、根室、国後、択捉」の6ヶ所という広大な区域でした。住職らの仕事は、管内を巡回し、死者の供養をすることを第一としていたそうです。
1973年(昭和48年)に国の史跡に指定され、現在はサクラの名所としても知られています。寺の格は十万石の大名並みといわれ、両方の門には徳川家の三つ葉葵門が刻まれており、将軍寺とも呼ばれていました。

写真は厚岸にある国泰寺です