松前5代藩主矩広は父や祖父と違って長生きし55年に渡って藩主を務めました。しかし、この間には芳からぬ事件が相次いでおきています。
蠣崎蔵人は、シャクシャイン騒動が静まった寛文12年に死亡。
それから間もなく永宝2年(1674)から、享保元年(1716)にいたる42年間に、5人の家老が変死をとげました。いずれも蠣崎二家系です。
毒殺・斬殺・暗殺といった異常死でした。(松前藩の正史「福山秘府」)

門昌庵事件
(八雲の旅(旧熊石町)に詳しく書いてあります)

同じ時期の延宝年間に門昌庵事件は起きました。
藩主矩広が寵愛した家臣の娘松枝が、松前氏の菩薩寺法幢寺(ほうどうじ)の住職柏厳(はくがん)と密通していると、矩広に告げ口したものがおりました。
矩広は激怒し松枝に切りつけ、柏厳を熊石に流し、後に家臣を派遣して斬首しました。
その後、柏厳の首が火をふいたとか、以来、柏厳のたたりが松前におよんだとかの伝説があります。

ところが、家老連続変死事件や門昌庵事件をたどっていくと、みな家老蠣崎二家に結びつきます。両蠣崎家の権力をめぐる戦いが生んだ事件と思われます。
このような状態ですから、矩広は長生きしましたが藩の業績は上がることはありませんでした。
矩広は一度幕府の老中に呼びつけられて厳重注意を受けています。

この時代、松前藩は砂金という特産を失いました。
砂金掘りも鷹匠も、蝦夷地(アイヌモシリ)に入って来れなくなりました。シャクシャインの戦いの反省にたって、和人の限りのない侵出に歯止めがかかったのです。アイヌの責任者への処罰は過酷でしたが、和人の侵出は止まりました。

藩財政は窮乏の一途をたどり矩広(のりひろ)は享保5年(1720)12月に63歳で死去しました。(主君 徳川家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗)

写真は熊石門昌庵本堂です