商場知行制を支えていた近江商人

近江商人は、全国各地へその商業活動の網を広げていましたが、17世紀の前半期には北海道方面にも進出して、松前藩の経済に大きな影響力を示すようになっていました。

慶長年間(1596~1615)には、近江琵琶湖東岸の者たちが福山城下に店を構え始めました。特に、組織的に進出してきたのは近江商人です。
彼らは松前と上方京坂地方との商品流通の中心的役割を担っており、元々蝦夷の産物は中世以来敦賀・小浜を拠点としていたので近江商人の活動エリアでした。

商人たちは両浜組をつくり、独占的に松前商圏の中心となり大手商人は自分の手船で物を運び、それほどでもない商人は、組共同で船を雇って営業をしていました。

近江商人の店は、呉服、太物(木綿類)など衣類、布類、小間物、荒物という日用雑貨類、薬種の類を取り扱う商店でした。そうして質店でもありました。
農業が成立しない松前では、米、味噌などを自給する方法がありませんでした。すべて本州方面よりの移入に頼るので、早春、一番に入港する船を氷割船(ざいわりせん)と称して船役銭を免除していました。

両浜組は、北陸の敦賀方面の運送船の組織である荷所船仲間と組織的な提携関係を持っていて、商品の移入に、また松前・蝦夷地の産物の移出に、安定した活動力を示していました。
近江商人のもう一つの活動は、漁業への資金の提供でした。松前の近在では古くからニシンがとれていましたが、これを大量に漁獲して、肥料という商品として移出していくようになるには、まとまった資金が必要でした。
両浜組の用意する資金や物資で漁業が拡大し、鰊肥料の販路が開けていきました。

鰊・昆布・干鮭・干鮑・獣皮・山丹交易品などを上方に運び、上方からは衣類・食料・生活調度品など、北陸および東北地方からは米・味噌・漆器類を仕入れてきて、松前を中心に販売したのです。
こうした近江商人の松前進出によって、城下町の内容も整い、商場知行制を成り立たせていたのです。