寛文9年(1669年)、シャクシャインの戦いがあった時の松前藩主は矩広かぞえ11歳でした。松前藩の始祖・武田信広から数えると10代目、松前藩創設の初代藩主・松前慶広は信広からは5代目です。従って、矩広は松前藩主としては五代目となります。
ただし、これには説が二つあります。「矩広」を五代目とする説と、矩広の前に父「高広(たかひろ)」を入れて矩広を六代目にする説です。
その理由として、矩広は、かぞえ7歳で藩主の座につきました。矩広の父・高広は同じく6歳で藩主になり、23歳の若さで死亡しますが高広を五代目にしたという説です。この蝦夷の時代では矩広を五代目としました。
祖父の氏広は20歳で藩主となり、在職8年で死亡。いずれにしても、矩広までの三代は幼君と夭折とが連続したのがその真相のようです。

松前藩は明治に入って廃藩置県で終わりますが、この時の藩主は修広(14代目)でしたが、始祖である武田信広の家系によって継がれていました。
しかし、実際に藩主が実権を握って統制をしていたのは慶広から三代目くらいで、後は幼少で藩主となることが多く、12代目の崇広(1854)までは家老である蠣崎(かきざき)一族が統治を行っています。

そのため、松前藩では蠣崎一族に対する反感は大きく、常に家老の暗殺が繰り返されていました。
シャクシャインで活躍した家老の蠣崎蔵人は、戦いが終わった後に突然亡くなっています。この蔵人が幼君矩広をバックとしておこなった蝦夷搾取強化策が、戦いの導火線になったのです。アイヌ民族に対する仕打ちに、異論を唱える藩士の暗殺ではなかったのかと言われています。

津軽一統志
津軽の援軍は海を渡り松前で待機していましたが、現地に行くことはありませんでした。しかし、その後津軽藩は秘密裏に隠密船を津軽地に送り、蜂起の状況をアイヌからつぶさに聞いて記録していました。それが「津軽一統志」巻十です。

また、シャクシャイン敗北の後、元禄元年(1688)水戸藩の徳川光圀が探検船快風丸を石狩に派遣したとき、交易の交換比率は干鮭100本にたいして米1斗2升入り1俵で少しは良くなっていました。しかし、はじめの2斗入り1俵にはついにもどりませんでした。

写真は松前藩の家紋です