標津線は根室線の厚床駅から分岐して別海の大平原を北へ進み、釧網線の標茶駅への中継地である中標津駅に至り、さらに北東に向かってオホーツク海岸の根室海峡に面する標津駅までの69.8キロの鉄路と、中標津駅から釧網線の標茶駅に達する47.1キロの鉄路からなる地方線でした。

根室原野への入植がはじまったのは明治の終わりから大正初期にかけてで、道内の各地からの再入植者が多くおりました。
農耕期間の低湿や日照時間不足、さらに火山灰質の土質で入植者は常に不安に陥っていました。そのうえ、交通事情の劣悪さで物価高と、生産物資の輸送に悩まされていました。

昭和4年5月、標津線の実地測量が始まり、厚床(あつとこ)ー奥行臼(おくゆきうす)間11.5キロの線路選定が完了したのは2年後の昭和6年8月でした。二年もかかったのには訳がありました。
当初の計画では、厚床から奥行臼、浜別海、尾岱沼を経て標津へ至る「海岸線」でした。それが住民間の紛争に巻き込まれ、厚床から原野を縦断して中標津を経て標津に至る「原野線」の運動が始まっただめでした。やがて、住民間の争いが政治覇権にまで発展します。
結局、経路は政治的決着で政友会の主張が通り「原野線」となりました。

工事は厚床ー標津間69.8キロを4工区に分け、第一工区厚床ー奥行臼間は昭和7年3月に着手し、翌年12月に完成。全区間は昭和12年10月に完成し営業が開始されました。

また、標茶駅を起点として中標津に達する鉄路は、昭和8年4月に実地測量が開始され、昭和10年4月に線路選定を47.1キロとして完了し、工事が始まりました。
全線開通は、厚床ー根室標津と同年同月で昭和12年10月でした。

開業当初の運行は、厚床ー中標津間47.5キロの所要時間は1時間45分。標茶ー根室標津間69.4キロは2時間40分でした。

1989年(平成元年)4月30日に全線廃止となっています。