八咫烏

八咫烏(やたがらす)とは神の化身ともいわれ、三本足のカラスとして古くよりその姿絵が伝わっています。
熊野本宮大社の鳥居の横に掲げられているのが八咫烏の旗ですが、八咫烏に一番馴染のあるのが日本サッカー協会のエンブレムです。

十津川の村史は、恐れ入るほど日本の歴史がすっぽり入っているのです。
「日本書紀」「古事記」にとどまらず、「吾妻鑑」「保元物語」「太平記」、更に豊臣秀吉の「太閤検地」、そうして幕末の京の騒動・戊辰戦争と、事あるごとに十津川(人)が登場してきます。

例えば、「吾妻鑑」に出てくる十津川は、頼朝の追補をうけている義経が潜行地として十津川が語られ、「保元物語」では十津川人の典型ともいわれる行動が語られます。
「中央でなにごとか政権を争う合戦が行われる場合、誰が呼ぶのか、この人馬不通の山岳地帯から「兵」として出てくるのです」。

幕末に起きた「天誅組」などでは五條(奈良県五條市)に1000人を超える兵が出陣したといいます。
十津川郷は百姓の民なので、他の藩のように支配者がいるわけではありません。村郷の頭が集まり、合議の上で兵となるので十津川共和国といわれる所以です。

玉置神社(たまきじんじゃ)

十津川村の南端に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くに鎮座する玉置神社も歴史を語る一つで、昭和天皇もお忍びで参拝に訪れていたといいます。

玉置神社の創立は紀元前37年、第10代崇神天皇(すじん)が王城火防鎮護と悪魔退散のため早玉神を奉祀したことが始まりといいます。
ところが、斑鳩の法隆寺は聖徳太子(574年~622年)によって造営されたといいますが、それよりもまたまだ以前ということなので、果たしてそのころ十津川の山奥に造られたかどうかについては疑問があります。

玉置神社へ向かう道

しかし、古い起源を持つことには間違いありません。
およそ1000年前、平安の初期、天台宗の智証大師(ちしょうだいし)がここに来て神仏習合(神仏をあわせ祭る)の霊地となり、有名になったといわれています。
それ以来、造営は長く国費で行われ、中世には熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の奥の院として信仰がありました。
また、この山は吉野の金峯山(きんぷせん)から熊野への修験者(山伏)の通路にあたり、中間道場として、行者たちはここで草鞋を授けられるのを、きまりとしていたとも伝えられています。

江戸時代には別当寺高牟婁院(たかむろいん)が置かれていましたが、その後、慶応四年の神仏分離により神仏混淆(しんぶつこんこう・神道と仏教の混淆)を廃し、以後玉置三所大神、更に玉置神社となり現在に至っています。
境内には樹齢三千年と云われる神代杉を始め、天然記念物に指定されている杉の巨樹が叢生し、平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。

境内に二基の塔があり、一つは後白河法皇、一つは和泉式部のもので参詣記念塔です。社宝の梵鐘は、今からおよそ850年前、応保3年(1163)の作品で佐々木高綱が献納したものといわれ、重要文化財に指定されています。