十津川村史の始まり

2月11日は国民祝日の一つ「建国記念の日」ですが、日本神話を基に法律制定されています。
明治初年、新政府(太政官)は日本書紀の紀年法を採用し、西暦から660年(紀元前)古くして神武天皇の即位年としました。錦の旗を掲げ次々と倒した正当性を強調したかったのでしょう。皇紀2600年(昭和15年)にあたる太平洋戦争の前年に政府は国を上げて祝典・行事を行います。
ところが、終戦後占領軍の意向で廃止されるのですが、復活の機運が高まったとし昭和41年に再度制定されました。

現在の令和天皇は歴代で126代目になります。

『古事記』『日本書紀』が伝える初代が神武天皇で、『日本書紀』に神武東征の物語について語られています。
紀元前の話ですから定かではありませんが、概略下記のとおりです。

神武天皇は日向の国(九州)から東へ遠征するも、地元の豪族の抵抗で3人の兄を次々と失ってしまいます。そこで、最高神である天照大神と、造化の三神の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が、宝剣・布都御魂(ふつのみたま)・八咫烏(やたがらす)を神武天皇に授けました。これにより神武天皇は攻勢に転じます。

神武天皇は瀬戸内海岸を東に進み、やがて大阪湾に入って上陸し、河内平野をわけ入り、やがて生駒山を越えて大和の国に入ろうとしたが、土酋の長臑彦(ながすねひこ)に阻まれ退却し、ふたたび海に泛(うか)んだ。

捲土重来(けんどちょうらい)を期し、紀州半島の先端にまわった。
先端で上陸し、
熊野の山々を越えに越えて北上し、八咫烏(やたがらす)を先導に十津川を経て大和盆地のいわば搦手(からめて)から入って、橿原(かしわら)の宮で第一代の天皇として即位された

 この「八咫烏」というのが十津川郷の先祖を指しているという伝説が残っているのです。
「神武天皇が十津川を通った」というのは、いまとなれば十津川人の信仰でもありますが、ともかくもそこから十津川村史が始まります。