明治末期の北海道の鉄道敷設は政党、地元有力者、企業、住民など様々な絡みを持ちながら進められました。
そうして、明治43年2月に軽便鉄道法案が議会に提出されます。
この法案は、出願手続きを容易にし、何よりも地方支線の安上がりな速成を目的としていました。

法案が成立して1年間で50鉄道が免許を受けます。
しかし、営業的に自立できる可能性もなく、結局名乗りを上げたのは苫小牧軽便鉄道、美唄軽便鉄道、定山渓鉄道の三社にすぎませんでした。この三社も中央資本による石炭や木材輸送中心の鉄道。

財政難の国有鉄道でしたが、軽便線に積極的で全国に25の敷設を決定します。
この中に北海道は6線が予定されました。岩内軽便線、湧別軽便線、上磯軽便線、萬字軽便線、東倶知安軽便線、天塩軽便線でした。
まず湧別と岩内の2線の着工が決まりました。

写真は王子軽便鉄道。支笏湖と苫小牧を結びました。
今も、その陸橋が残っています。