北海道へ志願して渡った士族たち 6

 写真はJR旧木古内駅を写したものです。
現在は北海道新幹線の駅が作られて様変わりしましたが、かつては閑散とした駅前で駅舎の壁に咸臨丸のモニュメントが飾られていました。

明治3年 仙台藩士・片倉邦憲 3

サラキ岬に眠る「咸臨丸」

サラキ岬は、木古内町亀川地区に位置し、沖合では、幕末に活躍した咸臨丸が眠るといわれています。

岬からは、津軽海峡を一望し函館山を眺めることもできます。
チューリップ花壇や咸臨丸モニュメントなどの整備も行われ、木古内町の観光
スポットのひとつになっています。

咸臨丸は、1857年にオランダで産声をあげ、幕府海軍創成期の主力艦として配備されました。
1860年、木村摂津守喜毅、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎など百余名を乗せ、渡米する幕府遣米使節護衛目的の随伴艦として太平洋を渡る偉業を成し遂げるなど、幕末の動乱期に日本近代化の歴史的象徴として活躍しました。

しかし、その栄光とは裏腹に、晩年は戊辰戦争の渦に巻き込まれ、軍艦から北海道への物資運搬船となります。
北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、明治4年10月5日、木古内町のサラキ岬沖で座礁沈没しました。

木古内の漁師は船を出して救出に向かったため全員救われましたが、持参した家財などは全て海の底となりました。

この時、救出に来た船に乗る順番をめぐり家老と家臣とが話し合いとなりました。家臣はお年寄りを優先して乗せるべきと主張し、それで一旦収まりましたが家老は実際には仙台で乗船した順番で船に乗せました。

このことが、その後家老に対する不信感となり一旦白石に入りますが分裂して手稲村が出来ました。

北海道の岬めぐり 75 (サラキ岬)