北海道へ志願して渡った士族たち 5

写真は現在の白石神社です。
明治5年に「札幌神社」が円山に移転となったため白石村百番地に社地と定め、札幌神社を移築し今の「白石神社」となりました。開拓使岩村通俊が橿原神宮より御分霊を奉戴して白石村守護産土神とし奉祀したことに始まります。

石狩国札幌郡 (現札幌市白石区・手稲区)

明治3年 仙台藩士・片倉邦憲 2

旧白石藩の第三陣の移住は、これまでとは違っていました。

片倉家では、旧家老佐藤孝郷を中心とした「開拓事務所」を開設し按察使に対して「移住の公費化」を再三にわたって訴えていました。

その願いがかなえられ第三弾の移住はこれまでと様子が違ってきました。

移住者の貫属化」と「公費支給」(旅費・農機具の支給)さらに「三ヵ年間の食料等の支給」が認められることになり、約600人という大集団となります。そのために二班に分かれて出発します。

明治9年9月第一班398人は寒風沢港から「咸臨丸」に乗船して北海道に向かいます。第二班206人は「庚午丸(こうごまる)」で出帆します。

両船は10月5日に函館を出ますが、咸臨丸は出帆直後座礁して荷物もろとも海中に沈没してしまいます。

移住者たちは、救助されて後続の庚午丸に乗り換え同月6日にようやく小樽に上陸。札幌にて開拓使判官岩村通俊に面会したものの、岩村はこのことを知らされていなかったため入植地も予定されておらず、春まで石狩で待つように伝えられます。
しかし再度交渉した結果、最月寒(もさっぷ)への入植を認めてもらい、12月7日までに粗末な住宅47戸を20日間で作り上げ、石狩で待機していた140戸を移住させます。視察に来た岩村判官は感嘆し、最月寒を改め故郷の名をとって白石村と命名しました。

しかし、家老の佐藤孝郷のやり方に反感を持つ三木勉ら54戸240人は、明治5年2月16日に石狩から発寒村に移っていった。これが手稲村です。
これは咸臨丸沈没が原因でした。沈没した時に、木古内の漁民が舟を出して助けたのですが、この時に「舟に乗せる順番」で後々に不満が出たためです。

やがて3ヵ年間の扶助期間が過ぎると、彼らは他人に土地を売ったり、当時九州に起こった西南戦争に志願するなどして村を離れる者もでました。

明治10年代後半になると、白石と隣接する地区に北陸地方からの農民移民が多数入ってきたことから、農民による本格的な開拓が始まりました。

一方、第一弾・第二弾移住の幌別では開拓者の数も多くなり、開拓する土地も少なく景範は跡取りの景光を幌別に残し、札幌郊外の上白石村に移ります。
主君景範を頼って30戸が従いますが、残った移住者は「まるで捨てられたようだった」と当時を振り返ったといいます。

幌別郡は登別市となり温泉の町となります。
登別温泉の奥にある現カルルス温泉は家老日野愛憙が明治19年発見し、22年に愛憙の養子久橘が木材調査に訪れて同じ温泉を発見、30年に輪西の市田重太郎が許可を得て日野家と共同で温泉経営をはじめることとなります。