コシャマイン慰霊祭

コシャマイン
不詳~1457年

渡島半島のアイヌ部族の総酋長

 

 

 

新羅之記録

アイヌ民族には文字がなかったので記録はすべて口頭でしかありません。従って、中世の蝦夷地における史料といえば「新羅之記録」が頼りです。
この史料は、松前藩最古の歴史書で松前景広が1643年(寛永20年)に江戸幕府の命令により編纂された松前家系図の不備を正し、多くの記録を補って編集したものです。
史料は、主に1456年(康正2年)から1525年(大永5年)までのアイヌの蜂起とその原因そして終結までを記したものです。

松前景広は松前藩初代藩主・松前慶広の六男として誕生。慶長7年(1602年)、父・慶広の命で父の母方の祖父・河野季通の名跡を継ぎ、河野氏当主の通称である加賀右衛門を名のりました。しかし松前姓に復姓し、父の死後から宗家の藩主を補佐した。明暦4年(1658年)1月18日に死去。享年59。

コシャマインの戦い

コシャマインとは、渡島半島のアイヌ部族の総酋長と考えられています。子供がいたようですが、名や人数、性別等は不明。
コシャマインの戦いは、いろいろな人が創作で書いています。現在の北斗市七重浜で亡くなるのですが、親子で殺害されたが定説のようです。コシャマインの死が1457年となっているのは、武田信広に殺害されたことが史料にあるからです。

1456年春、箱館にほど近いシノリ(志濃里)の村でアイヌの少年が倭人の鍛冶屋に依頼しました。マキリの切れあじをめぐって口論となり、鍛冶屋がアイヌの少年を刺し殺す事件が起きます。
これをきっかけにして、今までの数々の和人の横暴に対して道南地方のアイヌの人々がついに和人(日本人)に対して一斉に蜂起しました。そのとき酋長であったのがコシャマインでその指揮にあたったとみられています。
 
1457年5月14日、アイヌ勢が箱館をはじめ、道南各地の豪族の館を襲撃しました。
十二館という和人の拠点
小林良景の志濃里館、河野政通の箱館、佐藤季則の中野館、南条季継の脇本館、蒋土季直の穏内館、今泉季友の譚部館、下国定季と相原政胤の松前大館、近藤季常の禰保田館、岡部季澄の原口館、厚谷重政の比石館、下国家政の茂別館、蠣崎季繁の花沢館。
 
アイヌ勢は最初優勢で、茂別館と花沢館の二館を残すのみという状態になりました。しかし、花沢館(現在の上ノ国町)にいた武田信広(後に、蠣崎氏の養子。松前藩祖)によってコシャマインが討たれるとアイヌ勢は劣勢になり、ついに敗れ、和人が道南を回復、戦いは終結しました。
コシャマインは戦そのものは敗北しましたが,以後100年間も続く戦いの戦端を切ることになります。

記録はわずかに松前氏の古い記録に記されているだけで、詳細は不明であるうえ、コシャマインの人物像もはっきりしていません。

写真は十二館の一つ小林良景の志濃里館からの函館山
戦いは、ここから始まりました。
この場所から描いた絵があります。(志苔館からの函館山)