武田信広

永享3年(1431年)~明応3年(1494年) 享年64。

室町時代後期の武将。

生い立ち
若狭国(福井県小浜市伏原)守護武田信賢のぶかたの嫡男として後瀬山城で出生。幼名は彦太郎。
松前藩の記録によると21歳の時、宝徳3(1451)年若狭を出国して陸奥田名部(むつ市)に至り,享徳3(1454)年には安東政季らと共に蝦夷地に渡って,上ノ国花沢館(松前町)館主蠣崎季繁のもとに寄寓。

文安4(1447)年に「奥州十三湊日之本将軍安倍(安東)康季」が若狭羽賀寺(小浜市)を再建していること(「羽賀寺縁起」),寛正4(1463)年には小浜港に十三丸という大型船が入港していること(『政所内談記録』)などに若狭と十三湊(青森県十三湖),および同地を拠点として奥羽北部・北海道南部を支配した安東氏との密接な関係がみられるため,信広が若狭出身であった可能性は十分考えられるとしています。

しかし、松前藩の新羅之記録で正保3年(1646年)にまとめられたものなので、不明な点が多く若狭から渡ってきた商人という説もありますが、若狭国であったことだけは確かなようです。

松前藩の始祖

長禄元年(1457)、アイヌ民族の東部首長コシャマインが同族を率いて蜂起し、和人の館を襲って次々に陥落さ、残るは茂辺地館と花沢館のみになりました。
翌長禄2年、上ノ国の花沢館主、蛎崎季繁(かきざき-すえしげ)方に逗留していた武田信広は、自らの蛎崎軍の先陣として出陣し激しく反撃した挙句、ついにコシャマイン父子を七重浜に誘い出しこれを打ち破ります。 

洲崎館跡

蛎崎季繁は大いに喜び、信広に幼女を娶らせて蛎崎家を継がせ、天の川沿いに州崎館を設けて居館としました。以来、信広は蝦夷島の覇者として基礎を固め松前藩の始祖となっていきます。

勝山館は信広が十五世紀半ばに築いた山城で、夷王山には信広を祀る夷王山神社が建っています 。

 

写真は武田信広時代の館跡をレリーフで作られた物で北海道博物館の展示品です。上ノ国に中世時代が今も保存されています。
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