土方歳三

天保6年(1835)~明治2年5月11日(1869年6月20日)

戊辰戦争の最後の戦場となった箱館
五稜郭防戦で銃弾を受け戦死
享年34歳でした。

明治維新前は徳川幕府。
それ以後は明治時代と考えがちですが、そうスパッと変わるものではありません。

薩摩・長州連合軍が鳥羽伏見の戦に勝ち、江戸を無血占領した後にも300年続いた徳川幕府が消滅したわけではありません。
幕府を守ろうとする男たちと、新しい日本を築こうとする男たちの戦い「戊辰戦争」が勃発。戦いは会津藩を中心に各地で繰り広げられ、最後の決戦となった箱館では、一人の旧幕府軍幹部が壮絶な死を遂げました。

五稜郭タワーの1Fに土方の銅像があります。
毎年5月下旬に「函館五稜郭祭り」があり、戊辰戦争の舞台となった五稜郭にまつわる歴史を後世に伝えるため昭和45年から続けられています。
この祭りの中で「土方歳三コンテスト全国大会」があり、土方になりきって演技をし、誰が一番土方歳三になりきれているかを決めるイベントです。優勝者には賞金10万円。優勝者の演技はYouTubeで見ることができます。

明治2年旧5月11日(6月20日)、箱館・一本木。
一発の銃弾が、土方歳三の命を奪いました。彼の死は、旧幕府軍の総大将榎本武揚をはじめ、兵士たちの士気を大きく揺るがしました。

元新選組副長・土方歳三が旧幕府軍に加わり、道南の森町鷲ノ木に上陸したのは、明治元年旧10月20日。
3千人の男たちは、この蝦夷地で独立国を夢見ていました。
しかし、土方の死から7日後、旧幕府軍は五稜郭で降伏、建国の夢は潰え、これをもって戊辰戦争は終結しました。

生い立ち

1835年、土方は東京都日野市(武蔵国多摩郡石田村)で裕福な農家の四男として誕生。水田の広がる15~6軒ほどの小さな村でした。
生まれた時すでに父はなく、母も5歳の時に他界。2番目の兄夫婦に育てられます。幼いころから武士になる夢を膨らませていました。
姉の夫、佐藤彦五郎の道場で「天然理心流」の剣術を学び始めると、めきめき腕を上げていきます。そうして、本家から出稽古で来た近藤勇と出会います。

(近藤勇との出会いから京都へ、そうして新選組における活躍は良く知られているので省きます)

1867年、幕府は大政奉還を決め、徳川幕府に終止符が打たれました。
鳥羽伏見の戦いの火蓋が切って落とされたのは、年号が変わった明治元年。
戊辰戦争の勃発です。
怪我で参戦できない近藤にかわった土方は新選組を率いて、会津藩をはじめとする旧幕府軍に加わりますが、銃や大砲の前にあっけなく敗れ新政府軍の圧倒的勝利でした。

土方はまげを斬り、和服から軍服に着替え、銃で戦術を立て直すため江戸に向かいます。近藤と土方は、新たに兵を集め千葉の流山で決戦の時を迎えようとしました。ところが準備が整わないうちに敵軍に取り囲まれてしまいます。
近藤は局長として覚悟を決めました。
「俺が捕らえられているうちに逃げてくれ」
土方は皆を率いて会津まで逃げ延び、旧幕府歩兵奉行大鳥圭介率いる伝習隊と合流して、東北各地を転戦し、会津落城後は仙台から榎本艦隊に乗り組み蝦夷地へと渡りました。

森町・鷲ノ木

旧幕府軍は箱館府の意表をついて10月20日内浦湾鷲ノ木(現森町)に上陸。

全軍を二手に分け、本隊は大沼、峠下を経て箱館に、支隊は土方歳三を隊長に鹿部、川汲峠(旧道)を経由して箱館へ。
当時五稜郭にいた箱館奉行所、清水谷公考は急襲に驚き津軽に逃れたので、11月1日榎本は箱館平定を祝して祝砲をはなち五稜郭に入場。

開陽丸

松前藩は新政府に加担していたので、松前を討たなければなりません。海陸から松前を攻め、中山峠を越えて江差を攻めます。
ところが、松前藩は逃亡したあとでした。
折からの暴風雪で11月15日旗艦開陽丸が江差沖で座礁沈没してしまいます。
松前藩主第18代徳宏は危険を察し、熊石から津軽に渡り弘前で病没しました。

乙部町・上陸の地

一方、新政府軍は海軍力の増強を計り明治2年大挙箱館に向かいます。

4月9日、日本海檜山の乙部(現在の日本海・乙部町海岸)に上陸し、江差、松前を奪還し箱館に向かいました。
主力艦開陽丸を失った痛手は大きく、戦局は急激に悪化。

矢不来(現・上磯町)の激戦を勝ち抜いた政府軍は五稜郭に向ける一方、別部隊が船で箱館山の背後に回り寒川に上陸し、急斜面をよじ登り、11日、山上から攻撃を開始しました。
不意を突かれて敗走し、弁天砲台は孤立状態となります。
弁天砲台には旧新選組兵士も加わっており「弁天砲台危うし」の報に、土方は決死隊を率いて奪還に向かいました。

五稜郭から弁天砲台(今は取り壊された・旧函館ドック周辺)に向かう一本木(今の若松町・五稜郭から函館駅に向かう道で駅の近く)で、腹部に銃弾を受けて倒れました。明治2年5月11日のことでした。

四稜郭

政府軍は約8000人、迎え撃つ榎本軍は約3000人。半数にも達しない相手に政府軍は苦戦を重ね、これほど勇敢な抵抗は戊辰戦争以来始めてと政府参謀と言わしめました。
しかし、箱館の壮絶な海戦も、弁天砲台や千代ケ岱の奮戦もむなしく、また、五稜郭北方に急造した四稜郭も未完成のうちに陥落、5月17日、榎本は五稜郭を出て降伏しました。