武田斐三郎

1827年(文政10年)~1880年(明治13年)

五稜郭の橋を渡ると「武田斐三郎の顕彰碑」が
あります。
彫像の顔が光っているのは、触ると頭がよくなる
という噂が広まり、なでまわされたからです。

 

 

 

安政元年(1854)ペリーに押し切られて下田、箱館を開港しましたが、それ以前からロシアの南下政策が露骨となり、蝦夷地周辺が険悪になってきました。

箱館山にあった箱館奉行所跡

幕府は松前藩だけに防衛を任せておけず、箱館付近を幕府直轄として「箱館奉行」を任命して、米、ロなどの対外交渉を当たらせます。

当時の箱館奉行所は、箱館山の中腹にあり、港からまる見えのため敵艦の砲撃に備えて、移転すべきと考えていました。
そこで、現在の地に城を築くことを決定し、安政4年(1857)に着工。
予算18万両の大金で7年間をかけて造り上げたのが五稜郭です。

設計は箱館奉行支配人諸術調所教授役の「武田斐三郎」

五稜郭図面

大工の人数は毎日500人、土石工事に動員された人夫は、多い時は一日5~6千人という大工事でした。
使用する石材は、箱館山の安山岩を切り出して使いましたが、隅角や「はね出し」など重要な部分には、備前産(岡山県)の花岡岩を使いました。
しかし、後に資金が不足してからは亀田川から石を拾い集めて代用したので、裏門は粗末になっています。

五稜郭はオランダ式の築城法で、フランス海軍から献上された築城書を武田斐三郎が研究して図面にしたものです。
見たこともない城郭を築城書で作り上げた武田斐三郎とは、どのような人物だったのでしょう。

30歳で箱館に来た斐三郎は、稀に見る偉大な科学者であり、指導者でもありました。それを物語る勝海舟の追悼の言葉があります。
「徳川幕府は、後世のために素晴らしいものをいくつか残しているが、この時代には輩出した真の優秀な人材は、わずかに指を折って数えるにすぎない。その中でも武田斐三郎は、終始一貫して優れた人物であり、我が国科学技術の先駆者として万能の逸材であった。しかし、世間の人々がそれほど知らないことは、実に惜しいことである。」(明治13年、斐三郎は53歳で亡くなります)

生い立ち

1827年、伊予(現在の愛媛県)大洲藩士の次男として生まれますが、父が病弱だったので医師を志します。
しかし、異国船打払令を出す不安に襲われる時代のため、天下の動きを知るために大阪に出、蘭学者緒方洪庵の塾に学び、数か月にして江戸に上り、伊東玄朴、佐久間像山に就いて、英仏二か国の学を修め、航海、築城、造兵などを学びます。

安政元年(1854年)北辺が騒然となってきました。幕府は箱館視察を命じた時に斐三郎に同行を命じます。青森の三厩に到着した時に、対岸の箱館にペリーの軍艦数隻が入港し、松前藩が苦慮しているという知らせが入ります。斐三郎は、筆談で応接し米艦は箱館を出港。
この時のペリーの日記で、「私が見た日本人の中で最も堂々たる一人であった。おそらく彼に通訳の地位を与えたものであろう」
斐三郎は、国防軍備と外国人の接待目的で、幕府直参の地位に取り立てられます。(28歳の一藩士が直参の抜擢は異例の昇格)

蝦夷地初めての西洋学校

箱館奉行所

箱館奉行所は、彼の豊かな知識を多くの人々に教えようと、講義と技術実験の学校として「諸術調所」という、蝦夷地初めての西洋学校を開設し教授を命じます。
彼は、この学校では身分は一切関係なく、成績によって序列を決め、手当金を支給するという画期的な制度を設けます。
全国各地から向学心に燃える若者がぞくぞくと集まりました。

 

 

国産ストーブ第一号

イギリス船に乗り込み、ストーブを精密に写生し職人に造らせます。
これが日本で最初の国産ストーブ第一号となりました。この複製版は、高田屋嘉兵衛資料館に展示されています。

弁天岬の台場築城

29歳の時に、弁天岬の台場設計を命じられます。この台場は明治29年に函館ドック建設で壊されますが、箱館山麓で港の入口を抑える拠点で、敵艦の射撃にも耐えられる構造でした。
しかし、この威力が発揮されたのは箱館戦争でした。榎本武揚ら旧幕府軍は、最後には弾薬や食料の欠乏から降伏しますが、戦闘では陥落しませんでした。
このことは、斐三郎の築城の力量を証明しています。

五稜郭の設計
五稜郭の最大の特徴は、5つのとがった所から射撃ができ、城の前には2メートルの塀がめぐらされ、更に周りは幅30mの堀で囲まれているため、攻めた時に身を隠すことができない陣地でした。
それをオランダ訳の築城書一冊を頼りに、2つの城郭を一人の力で設計し完成したのです。