関寛斎 せきかんさい

文政13年(1830)2月18日―大正元年10月15日 

現在の千葉県東金市生まれ 
幕末から明治時代の蘭方医

70歳を超えて開拓者として鍬をふるった老医師
十勝の最北「陸別町」の開墾先駆者

明治30年代には、道路の開削に変わって、鉄路の建設が盛んになりました。
今は札幌から網走に行くには、旭川駅から遠軽駅経由の石北線がありますが、この鉄路が開通するのは昭和7年のことです。当時の鉄路で北見国を結ぶルートは、札幌駅―旭川駅―富良野駅―帯広駅―池田駅―北見駅でした。
従って、十勝と北見の境にある陸別に行くには十勝経由となります。
明治のベストセラー「不如帰」の文豪徳富蘆花は関寛斎に会うために、この列車に乗り「みみずのたはこと」で書いています。

関寛斎資料館内

陸別町とは十勝国と北見国の国境にある町ですが、2012年にユニクロが町民全員約3,000名分のヒートテックを贈ったことで話題になりました。ようするに、日本一寒い町です。
この町を夏に訪れたことがあります。帯広から北見に向かって足寄経由で約2時間ほどかかりました。かつては、鉄路「ふるさと銀河線」が池田~北見に開通していました。今は陸別駅は「道の駅」となり、併設して「関寛斎資料館」がありました。司馬遼太郎、城山三郎も、この地を訪れており、館内にはそれぞれの色紙が展示されています。司馬は「胡蝶の夢」、城山は「人生余熱あり」で関寛斎を小説として取り上げています。

生い立ち

現在の千葉県東金市にあたる九十九里付近の平凡な農家の生まれ。
3歳で母を亡くし母の姉の嫁ぎ先である関家の養子になり、18歳の時「蘭学こそ、自分の道」と決心し佐倉順天堂に入門。

1852年、22歳の時に銚子で医院を開業。
このころ長崎に外国船の出入りが増え伝染病が持ち込まれます。コレラで1858年(安政4)には江戸だけで死者36万人ともいわれました。
寛斎は西洋医学の必要性を痛感し、30歳の時に長崎に渡りオランダの軍医ポンペに学びます。
この時に勝海舟が艦長をしていた咸臨丸の船医となり診察も手がけました。
たった一年でしたがポンペ直伝の最新蘭医学を身に着け銚子に戻ると近隣に響き渡り患者は連日列をなします。

これにいち早く食指をのばしたのは、徳島の阿波藩で藩の御典医として招きたいといいます。年老いた養父母、身ごもった妻、4人の子供、さらに長崎遊学資金の借金をかかえる身にとって給料が破格の徳島への選択しかありませんでした。

奥羽出張病院

1862年(文久元年)、寛斎は阿波藩に渡ります。
しかし、その後戊辰戦争の口火が切られ阿波沖では榎本武揚の開陽丸と薩摩藩船との間で戦い始まりました。
寛斎は、傷ついた兵士のために、茨城で病院開設にあたり、医療活動を行う日本最初の野戦病院となります。
官軍の軍医として腕を奮い西郷隆盛からも名医と褒め称えられます。
内乱もおわり寛斎には国を代表する名医としての出世が予定されていました。
しかし、地位や名誉は嫌い、43歳の時に徳島で平民として病院を開き、裸一貫から再出発をします。

 

 

 

関大明人

司馬遼太郎の色紙

町医者になった寛斎は、佐倉順天堂時代の恩師の「医を以って人を救い世を救う」という教えを守ります。裕福な患者の往診などは、難癖をつけて行かずに、逆に貧しい家に病院が出たと聞けば、すぐにかごに乗って出かけ、診療代も薬代も決して受け取りませんでした。寛斎の存在は町の人にとって、まさに神そのものでした。枕の上に「関大明人」と書いて、その前に供物を置き、拝んでいたといいます。

彼は、朝は4時に起き、つつみを打ち、「働け、働け」と歌いながら、近所の家一軒一軒を起こして歩きました。早起きは地元では有名な話で、当時小学校では校長が引率して子どもを見学に出かけ、早起き奨励につとめたほどでした。

城山三郎の色紙

寛斎が北海道とかかわりを持つようになるのは、四男又一が札幌農学校に入学してからです。又一が学業を実践したいという願いを叶え、石狩の樽川農場で実践農業を習得します。そして、明治34年農学校を卒業したことをきっかけに、自分も北海道に渡ることを決意します。
この時72歳でした。もはや隠居の年齢で、徳島で医業を続ければ財産もあり収入も十分なもので、平穏な老後が約束されていたにもかかわらず、彼は苦難の道を選んだのです。

明治34年8月。長年住んだ徳島を去ります。石狩の樽川へ入り、さらに秋には十勝国斗満(とまん)、現在の陸別町に入植しました。

なぜ北海道入植を志したのか!
寛斎は「世に対する義務」の大切さを厳しく教え込まれて育ちました。長崎ではポンペに「人は皆誰かに何か喜びを伝え得るというだけで奉仕の誠を尽くす」ものだと学びます。「医を以って」の道でした。
しかし、明治40年代後半、彼が老境に達したころは、かつての近代化の花形だった蘭学は過去のものとなり、日常の医療活動に限界を感ぜざるを得なかったのです。そこで、彼が人生最後の道として選んだのは、「農に還る」ことでした。

明治34年の夏から、陸別町で牛7頭、馬52頭をもって、1ヘクタールの開墾を行いました。しかし、ここで待っていたのは過酷な自然との闘いです。山菜や川魚などを食糧にし、病気と闘いながら、そばや馬鈴薯、大根などを育てました。
しかし、やっと作物が実ったかと思うと、ネズミやウサギに食い荒らされるという惨状だったのです。

寛斎の像

明治37年には雪害で馬40頭を失ってしまいます。さらに買い足した馬が原因不明の病気で9割が亡くなってしまうなど、災難が相次ぎ、働く人々も辞めてしまうなど関牧場は危機に瀕します。
そこで、彼は自分や牧場で働く人々に活をいれます。
「我牧場の現状を恐るる者あれば、直ちに退け。私は決してこの牧場を退かざるなかり。もし最後の一人となっても、初心を貫く道なりと信じて動かざるなり」彼の気迫に心打たれ、再び開墾の仕事に奮い立ちました。関牧場は、再び種馬2頭から出発。その後、地道な努力を続け、明治42年にはおよそ2千ヘクタールの土地と牛80頭、馬140頭を所有するまでになりました。

また、医療活動も行います。開設されていたトマム駅逓所の一室を医療室として地域住民の診察に従事するとともに、往診も行い、時には警察署からの検死の依頼もありました。彼が西洋医学を修めた名医であるという情報は十勝管内にも知れ渡り、多くの患者がトマムの地を訪れます。
彼は、トルストイに共感し「土地を広げていきながらも、土地を独り占めすることなく、貧しい者たちでも自分の畑を耕せる制度」を導入しようと決意します。

しかし、札幌農学校で学んだ四男又一は、父が苦労して手に入れた土地が、他人の手に渡ってしまうことに反対し、農地解放に真っ向から対立しました。
そして、明治天皇がこの世を去り、大正元年となった10月、農地解放を行うことで、財産の分け前が減ると心配した孫までが、祖父寛斎に対し、財産分与を求める訴訟を起こしました。
大正元年10月15日。享年82歳。明治が終わった今、理想を求めて生き続けることはできないと考え、医者として多くの命を救ってきたその手で、毒を飲み、自らの命を絶ったのです。